思い出の記

犬のおまま

育ちのせいか、ついつい話が食べ物のことばかりで恐縮に存じますが、まず聞いでけろでば。天下広しとかだっても人間が犬のおまま(飯)を見てヨダレ流したのは自慢でないが俺ぐれあのもんだべ。あんまりほめだ事でねあども…。

祖父の博楽は私が七歳の頃に逝かれた。三代目も獣医だった。

祖父の博楽は私が七歳の頃に逝かれた。三代目も獣医だった。
その頃、形屋敷・旅人宿(旧盛・警察署隣り)に東京から毎年、狩猟に来るお客様が宿泊していた。真っ白なセントバーナードに似た愛犬を連れて来ていたが、その年その犬が妊娠していて、お産が間近かなため連れて帰ることが出来ない。そこで産後の日だちまでの間、犬の飼育を頼まれた。

犬の名は〝トム″と言った。獣医師の祖父は警察犬の獣医も任命されていて、時折り警察署にも出向いていた。隣りの形屋敷の誠さんとは将棋友達で、ちょいちょい寄る。そんな訳で犬の飼育を引き受けたのである。

たしか当時の料金で一ヶ月拾円也と聞いたが…。その犬は白米でなければ食わない。牛肉、豚肉、それに卵と牛乳がなければならない。そのころ盛町ではカデ飯、麦飯、三穀飯、一汁一菜、常に大根茎のざく漬けだ。白いご飯がたべられるのはお盆とお正月、冠婚葬祭だけだ。

毎日2食のお犬様の食べ物を見つめているのだった。なにしろ7歳の幼児である。日本男児とおだてられても毎日喉が鳴るのである。自然にヨダレが流れてくる。我慢に我慢を重ね、奮励努力しても日露戦争直後に生まれた私も、口に入らぬ不満から、自然にどこかで口走るのであった。〝犬のおまま食いたい″…と。

それがあたり近所でも噂となり俺の顔を見ると〝犬のおまま″が来たと評判になったものであった。

五葉登山

毎年、市が主催の「五葉山山開き」に参加した。故・鈴木房之助市長の時代だ。市長も娘さんを連れて参加された。赤坂峠まではバスでの送迎だ。五葉山には10回以上も登ったが、歩いて登るには大沢口からの方が近道であった。バスで登ったのは初めてだった。

赤坂峠では山の安全の祈願祭が終わり、お神酒が全員につがれた。市役所の若い職員たちも男女14人位で登った。一同は畳石で小休止して、ひと汗ふいた。若い連中は頂上目指して、さっさと登って行った。残ったのは市長さんと俺ばかりだ。市長さんはもうダウンしてしまった。とてもだめだから登頂を断念して下山すると言うのだ。

そこで俺の登山やハイキングの秘訣を話して聞かせた。牛も十里、馬も十里の諺もあるが、俺の秘訣は牛の十里だ。登り坂では、のったらのったらと絶対に急がないこと、疲れていなくとも絶対に急がず、そうかといってまた休んでもいけない。

若い人達より30分~1時間位遅れる程度に注意しながら登って行った。俺のアドバイスが市長さんの登る気持ちをかきたてたのか、娘さんと共にまた登り出した。途中で休みませんか?と聞いたら大丈夫だ、この調子ならなんぼでも歩けるとのこと。初めての五葉山、どんなに嬉しかったことか。帰宅してからどっさり酒粕を戴いた。

翌年の初夏に盛駅前の通りではるか遠くから市長さんが手を上げて高い声で呼び止めた。佐藤君、今年もあの要領で五葉さ登ったでば…と。

思い出の発見

ある夏の夜の思い出

カフェーが雨後のタケノコのように開店が盛んで、町には、すみれ、やよい、白菊、いろは、街のクラブ、と華やかなりし頃、女給たちは夜の花とか言われ、和服に白い短いエプロン、背にはタスキを大きな蝶に結び、まるでザクロがはぜたように口紅を真っ赤に塗り、手回しの蓄音機が1台置いてあって、擦りへったレコードが自称〝遊治郎″どもを誘うのだった。

電気蓄音機でスピーカーを鳴らしたのが、町では私が最初で、お祭屋台に取りつけ、踊りに音楽を流したのは桜場組が初めてだった。電源は当時、電気を配線している家は何軒もなかった。調べてみて、ソケットを差し込み電線を二通り準備して配線し、電気を送つてもらった。商店の皆様には快く御協力して戴き、あれから50年経った今でも感謝している。

題目の〝思い出の発見″を忘れた訳ではない。その当時の情景を言わなければ話がぴったりしないので、前書きが長ったらしくなるが、もう少し。その頃の流行のことば、飲食店や、カフェーに飲みに行くことを〝発展″したと言った。夜通し飲むと朝露を踏む…と言った。この朝露には私が重要な責任を負わねばならなかった。

東京で不運にも修業半ばに脚気にかかって、やむなく帰郷した。病気で帰って来たのに同級生の親しい連中から、同級会だからと招待を受けた。むくんだ足を引きずりながら、脚気のことは忘れ、酒を飲み続けた。夏の夜は夜明けが早い。たちまち夜が明けてしまった。心配して寝つかれない両親には面目ない。酔いを覚まさねば帰られない。

いろはを出て-

そこで考えた。昔から脚気の療法は早朝、草っ原に出て朝露を踏むのがもっとも効果があると言われた。ほろ酔い気げんで川原に行った。草履をぬいで裸足になった。なる程、気分が良い。川風受けて涼しくなり酔いも覚めたので裸足のまま家に入った。

見ての通り朝露を踏んで来たのである。以来、しばらくの間、悪友どもに、〝飲んで朝帰り、朝露踏むと…″とひやかされた。

さて、夏の夜の事件だが、ある晩、カフェー・いろはに行った。常連2、3人の先客がいた。女給相手にビールを3本あけた。夜が更けて12時頃となり、カフェーを出た。ハシゴはめったにしない方だ。友達でもいれば別だが。ほてった顔に夜風がさわやかだった。街は寝しずまり静かな夜だった。自分の家まであと5、60メートルの所に来た時である。見たところ佐々木医院の中央付近から垂直に50メートル位上空に火の柱があがっている。風がないので火の粉が真下にパラパラ落ちている。

ただ一度の火災発見

盛消防組三等消防を命ぜられ、三分団員新米ほやほやの自分が後にも先にもただ一度の火災発見だ。火の手を確かめ、桜場方向に火事だ火事だと三度程、声をかぎりに叫びながら、勝手知ったる駅前の三分団の屯所に駆けつけた。単衣の着物は上半身裸になり、財布とたばこは両挟で結び、屯所の扉を開け腕用ポンプを引き出した。

舵棒は左右二人で引くのだが自分一人だ。履物はフェルトの草履で足がすべる。

現在のように舗装道路ではない。石ころのデコボコ迫だ。汗は滝のように流れる。応接はまだ見えない。やっと「今喜」の前まで来た時、一番先に来てくれたのが忘れもしない 〝カフェー・街のクラブ”の山田秋声さんだった。ところが、引いてくれればいいのにポンプを後ろから押された。疲れ果てているのに押されたものだから、前にツンノメリそうになった。

ようやく現場近くまで行くとあたり近所の人達が皆応援に出て来た。バケツを持ってかけつける人もある。火災現場は佐々木医院と見たら、三軒隣りの石長屋の裏だった。その家の前にようやくポンプをおろした。今度は水がない。何人かが、寓兵衛様前から引いてくれた。あわてたつもりもないが吸管と放水管の位置が反対だ。半回転してどうやら吸管は取りつけたが、何んたる手落ちであろう。放水管が一本も準備していないのだ。、 再度、屯所にかけ戻り運搬車を引き出し、やっと放水ができた。幸いにも、その時刻は無風状態で物置き小屋一つで消しとめることができた。夏の夜は白んできた。俺は疲れ果てて、ぶっ倒れた。今度は誰一人、自分を見てくれる者もいなかった。

消防団幹部は、なんだそのざま、消防団員でありながら団の服装も着けず、帽子もかぶらず、消防の資格がないと、罵声と悪口だ。疲労のため寝たふりをして聞いていた。とんだ物を発見したもんだ。俺が服装を着けに行くひまがあったか。服装をとりに行っていたら火事は延焼していたであろう。火事が鎮火すれば、それでいいのでは…と分団長に食ってかかった。被害を最小限に食いとめたあげくに悪口雑言だ。これが大家の御曹司か、知名人の子息ならば大さわぎして、上申の手続きをし、表彰か功績章は戴けるだろうにと、貧乏人の〝遊治郎″はひがむのであった。

変な疑惑を呼ぶ

その後がまた大変なことになった。火災発見が早過ぎたのと消火の準備があまりにも万全な動作だったのが疑惑の原因となったようだ。当時の刑事は毎日毎日我が家を訪れ、くどくどと同じことを繰り返し質問するのだった。あきれたもんだ、なんの表彰どころか、不審火のため、原因も犯人もわからない。第一発見者の俺が、まるで犯人扱いだ。

一週間も通われては仕事にならない。考えて見れば馬鹿らしい話だ。その後五十年間、幸いつまらぬ発見はない。

今は、犬・猫を車で轢いて病院に運んでも美談と報道される世の中、これが有り難い世の中なのだろうか。

終わりに一言。まだまだ沢山の話が続くのだが、皆さんも身近な出来事、昔話等を話し合って後世に伝えようではありませんか。楽しい話、嬉しい話を残して下さった先輩、友人は皆故人となられた。感謝と御冥福をお祈り申し上げます。

 

 

「医療の話」

運河を築港

荒涼としたオホーツク海と、大船渡湾より広い能取湖、海に出入りの出来ない湖を船が通れるように運河を築港するのが私達挺身隊の任務だった。岩手隊三宅隊長以下10人、20年の6月12日、現地に向かって出発した。

函館本線小樽にて下車、翌日早朝、湧もう線二見が岡駅着。そこから西へ4里。美岬の砂浜が常呂まで4里の長い沿岸だ。そこには三角兵舎が二棟、調理場と風呂場が二棟建っていた。背後が国有林で雑木とトド松の原生林だ。冬の寒さはさぞ厳しいだろうと思ったが夏場のアブと蚊の多いのにも驚いた。それに大きな蛇も沢山いる。また野鳥も多く、砂浜では、揚げ雲雀。

宿舎の前は湿原で、6月頃になるとアヤメ、カキツバタ、名も知らぬ花が一面に咲き乱れ、淋しいながらも、まさに娯楽浄土だ。波は静かで3軒だけの農家は農業が本職だが、馬も5、6頭飼っていて、一日中野放しだ。10メートルの建て網で鮭や鱒をとってきては売ってくれる。我々も幸いに釣竿を持って行ったので砂浜からエビのような虫をとってきて餌にし釣ってみたら1時間位の休み時間で一尺位のウグイが20匹も釣れた。

工場現場の湖では湖口に一尺位の牡蠣が無数についている。潮の干満をみて取りに行く。一株あげると10個もついている。牡蠣もウグイも塩ふりして焼いて食べてみたが、あまり美味しくはなかった。内地物と比べると、まるっきり味が落ちる。

山菜の林

毎日の作業は土木工事と、それに原始林のトド松の伐採が主で、時々、調理炊飯係から山菜とりと、供出用のイタドリ刈りをたのまれることがある。なにしろ山菜だってイタドリだって一個所で刈り取ることができるのだ。一山がゼンマイの山である。

まるで山菜の林のようである。よく見るとウドが、ニンジン程の太さになって、白根が一尺もあるのだ。

作業が終わると風呂を浴びて夕食となるが、北の果ては日が長い。内地では考えも及ばない。午後七時を過ぎてもまだ日が照っている。その年は冷害のためかなり被害があった年で寒さも厳しかった。西に日が傾いたと思ったら、真夏なのにストーブに火を入れる家庭がほとんどだった。夜ともなれば電話もなければラジオもない。

時々来るのが空襲警報だ。岩手隊、福島隊、茨城隊で毎晩のように賭博が開帳されるのである。

白頭山節

岩手隊は真面目であった。隊長の三宅さんが、仲間の宴席でも今まで唄一つうたったことがないので何か覚えて帰りたいが、佐藤君お願いだから一つ指南を頼むと来たもんだ。〝ヨウガス″と、その道できたえた〝ウヌボレ″で引き受けたのである。さて、何がよがんべとなった。民謡、小唄、端唄なら大抵の唄は身についている。相談の結果「白頭山節」と決定した。初めての人にはむずかしいとは思ったが、本人の望むことなれば是非もない。それから毎晩白頭お山に積もりし雪は…と三カ月程やったが、まもなく終戦となったのである。

その間、岩手隊には免許皆伝の揉治療師・菅野宮松先生が入隊した。世田米から入隊した。毎晩、かわるがわる背中や腰の揉治療の特別奉仕である。時折り治療の話が出る。医者に見放された病人を全治させた話やら診断のことなど。病気は診察が第一で胆石症は咳が出るし、痰も出る等々の話から診断を下すのだなと感じた。

 

芭せを(しょう)の句碑

大正期の天神山

町民の憩の場所『天神山』に樹齢数百年の山桜の巨木の根元に芭蕉の句碑が配置されてあった。その懐かしい『天神山』は、大正時代までは僅か100坪ぐらいの平らな所に芝草が生えていた。周囲は段々の荒畑だったが、老杉の聳える北側には松を配置して北西の風を遮切り、春ともなれば花見の宴席となる数々の思い出が偲ばれる。

やがて県下随一の大忠魂碑が建設された。当時、盛町の村社は、中殿の老杉の茂みにあったが、やがて真上の高台に移転された。戦後、現在の場所に3度目の遷宮となった。

神殿の改築には、壮年団も力添えして当たり、鈴木房之助氏が全力傾注し、盛町に面して東向きの社殿に建築するのと相談がまとまりそうだったが、神社は南面が多いと、社殿の地形上、前庭が広くなり、大勢の参詣の場として好都合だとの私の構想が認められ、忠魂碑移転と決定しているが、東海新報の〝文学碑散歩〟を読む度に心はせきたてられる。元の碑の文体を基調に、市内の書家に一筆おねがいして協力を求め、石材店に見積書も書いてもらった。あとは自然石の原石の選定だけ…。

私の提言

これは私のまったくの独走なのだが、よく考えてみれば、これは私のやるべき事なのか、誰かがやらなばならないのか、それとも全くやる必要がないのか迷うのです。私は地元盛町の皆様の協力が第一だと思うのだが、いかがでしょうか。

句碑の再建に構想なり、ご意見ご指導など、愚考えの批判でも結構です。ぜひお聞きしたいと思いますので、よろしく御教示下さるようお待ち申し上げます。