〝がんばれ開発鉄道″

『三陸沿岸リゾートエリア』を設定、重点七地区。大船渡市と陸前高田市を母都市にと、昨年12月4日の東海新報紙上にて報道された。それを読んだ一市民として眠れる者に夢見る思い、歳末の慌ただしいなかの朗報で、沈滞していた町おこしに活力を与えられた嬉しい知らせだ。63年新春は、ほんとうに目出度い年になるよう心からお祈り申し上げます。

廃止、寝耳に水

その矢先き、12月26日付に 『昭和25年開業の開発鉄道盛-石橋間9.5キロ赤字決算脱却狙う旅客部門の廃止』 と報ぜられた。この寝耳に水の記事を読んでがっかりしたのは私一人だけではないと思う。特に地元、日頃市町民は片足もがれたような打撃を受けたことであろう。四季の変り目に利用している者として廃止ということは、発展に逆行しているようで実に心がが痛む。

三千有余に信者を抱える東北一の大寺院「長安寺」、県立公園の霊峰「五葉山」と山麓の牧場、それに山菜の宝庫、清流は釣りのメッカ…と数えきれない憩いの場、やすらぎを求めて登山する人。この人たちのためにも開発鉄道は大事な交通機関となっているように思う。

先日の東海新報には建設省が手づくり郷土賞の募集を始めたという記事があったが、開発鉄道沿線は自然の大景観と、やがて鷹生ダムが完成すれば、市の観光、手づくりの名所が出来るであろう。それなのに旅客部門廃止とは誠に残念なことである。

改善策・私案

そこで廃止の前に一考を。以前〝日本一乗車賃の安い鉄道″として放送局に投稿した事があったが、なるほどいつ乗って見ても客がまばらで、よく経営が成り立つものだと乗るたび思ったものだ。それが累積赤字なっては会社も苦しいだろうとお察し申し上げます。そこで私の苦言を申し述べます。

成り立つものだと乗るたび思ったものだ。それが累積赤字なっては会社も苦しいだろうとお察し申し上げます。そこで私の苦言を申し述べます。

第一に乗車に不便であること。JRと三陸鉄道の乗り換えが出来ない。ぐるっと三百メートルも迂回して踏切を渡って駅舎では、今の人たちは荷物など持って歩く事は苦手だと思う。そこでどうでしょう。三鉄ホームに乗り入れ出来ないものか?出来なければ客車部門だけ三鉄に委託したらどうだろうか。三陸発日頃市行、JR大船渡駅発長安寺行(盛と大船渡地区には長安寺檀家の半数以上を占めている)など交渉し、旅客の増加に努めたらいくらかでも増収になるのではなかろうか。

第二には赤崎町佐野付近に停留所の設置を必要としないだろうか。三陸町では、わずか二、三十戸の小石浜にも駅が新設されたが、上三区も都市計画が完成すれば四、五百戸の住宅と、中・小工場が誘致されるであろう。そこに住む人たちは駅に出て来るには大変不便を感じていることと思う。

佐野に駅を設置し、開発鉄道の客車を佐野まで延長したら、かなりの住民が利用するのではなかろうか。

大事な誘客宣伝

第三には、バスのように沿線部落に停車する停留所を設置したらどうだろうか。猪川発で千刈、久名畑、板用、川内、坂本沢、田代屋敷等に停留したら地元民は大船渡線と三陸方面に出掛けるのと、買物や病院等に通うのにもどんなに便利だろうか。

第四は、誘客宣伝ということも大事ではなかろうか。学校の低学年児童のミニ遠足等にも利用したら…我が家の孫も幼い時には、ちょいちょい終着駅まで往復したものだ。ちょっとした食べ物とおやつをリュックに入れて、広い車内での見知らぬ人との出会い、車窓からの変化してゆく風景を眺める、その顔のうれしそうな事。それは何にもかえがたい自然に親しむ情操の教育の一つと思う。

我が家の孫たちも中学、高校へと進学したが、今でも時々、「爺ちゃん開発鉄道で、日頃市さあばいや (連れてって)」と、思い出しては時折りせがむことがある。子供は乗物が大好きなのだ。

話はちょっと横道にそれたが、三鉄盛駅乗り入れが先決問題で利用客の身になってみて、廃止以前に何か打つ手があるように思われる。私のような老体が心配しても、それ以上のお考えがあって協議されていることと推察するが…。

『リゾートエリア』とは、想像もつかない程大規模な構想計画のようで、当市は上閉伊内陸部とも接近、連携を持つことは必至で開発鉄道も重要な役割を担う時が目前に迫っているように思われる。石橋駅から六郎峠をトンネルで抜ければ四キロぐらいで上有住駅に連絡出来るだろう。廃止などとは、とんでもない事だと思う。

起工から開業、二十周年の記念アルバム等の製作までお世話になってきた者として、何か役に立ちたい気持ちで、つまらない愚見を申し述べました。

終わりに、開発鉄道の皆さん労使一体となってがんばって下さい。

稲子沢家の総門

蓑虫山人稲子沢の絵を見て、七十五年前の自分の記憶が走馬灯のように思い出される。

稲子沢には大観音様と現存する御神童があって、巡拝して御神童で祈祷やら子供の健康成長を願って、体の弱い子は神様の虜子にあげると言う。神官様がおられて御祈祷を受け、神様のお授けになった名前がつけられている。強い子供になるように熊太郎とか、長生きするように亀太郎とか、女の子なら鶴江などである。長命で八十五歳になる叔母の本名はトメノだが、神様の虜子名で今もツルエと呼ばれている。

岩谷堂に売られて行った観音様は、実に立派な黄金燦然後光がさして、見事であったと覚えている。馬車で運搬されたのだが、御像は2メートル以上もあって、白石随道は抜けられず、迂回して高田町を通過して、盛街道を世田米を通り、姥石峠を種山越えて、稲子沢の宝物・盛地方の重要文化財が、遥かに江刺に移って行った。当時のお金で五百円は大金であったろうが、地元で買い求める資力はなかったのか、残念至極である。

それにしても文化財の保護は重要な問題である。古い物件を大事にして、無い物は復元し、ある物は保存し、後世に譲り渡し永遠に伝える事が我々の務めであろう。

稲子沢橋が大渡橋、権現堂が吉野町となり、昔の面影が消えていく淋しさを感じるのは、私だけだろうか。

創業以来六十三年、神社・仏閣・史跡・名所・旧跡・催事・祭りと、ファインダーに入るすべてを、手当たり次第撮影し続けている。それがこの商売を身につけた自分の任務と心得て続けている。

水野仁三郎さんから稲子沢総門の扉が保存されている事を初めて知った。主体の門は総欅作りで、水野さんの御親戚であられる富沢の西光寺さんの山門として立派に管理されている。この山門は明治末期に移築された。