はなし家の枕言葉のようで現代の子供達が聞いたら、吹き出し笑ってしまうような話である。
大正の初年、小学校3年生の頃か、預金奨励とかで柴刈り、縄ない、ワラジ造り、親の手助けと、二宮金次郎の唱歌を指導された。
その頃、〝一銭預金″を郵便局で勧め取り扱った。1銭の切手を20枚ぐらい張りつけたカードを差し出すと、はじめて合計金額が記入されて渡される。
家に着くまでには何度も開けてみては、額面をみる楽しさで、ひとりでに、にっこりする。金額が〝1円″にでもなると、笑いが止まらない。何しろ、1銭あれば、5個刺したダンゴが2串も食える時代だ。預金をするなどということは一大決心なの だ。
5円の額面の通帳を持っている子供等はほとんどいなかった。毎月、学校では受持の先生が預金調べをやるが、半数ぐらいの児童は預金なし。2、3円でもあれば大威張りで手を上げる。2、30銭では、そっと手を上げる。そんな時代だから、一般庶民には銀行という所は何の役所だろうと思ったにちがいない。子供心にも不思議に見えた。
その銀行に出入りするのは筒袖(つつそで)の着物に羅紗(らしゃ)の前掛け、角帯をきりっと締めて皮カバンをさげた商店の旦那様方だ。
当時、盛町には盛岡、気仙、盛と三銀行があって、大船渡町には盛岡銀行出張所が開設された。明治41年、盛銀行と昭和初期の大船渡信用組合の設立当時の重要な役割を果たした諸氏の面影を、失礼とは存じながらも、思い出懐かしく、ここに掲載させていただきます。
盛銀行買収記念の写真は千葉忠治梯の長男・良治先生からお借り致しました。先生ぁりがとうございました。(私が4歳の時)