五葉山檜山騒動(柴琢治と喜福)について

平成元年というと、明治は遥かに遠い昔になったように思われる。三陸沿岸に最大規模の大津波が襲ったのは、明治29年端午の節句で、旧暦5月15日、夜明けにはまだ早い真夜中だった。気仙沿岸では、全滅した部落もあるほどの大惨事を被った。津波の高さは片岸で波高5.4メートル、小白浜16メートルで、地形によっては30メートルに達した所もあった、と記録にある。

押し寄せた3度の大怒涛が引いたあとの被害は惨たんたるものだった。たとえば、唐丹村を例にとれば、流失家屋360戸、死者2000余人、船舶210余、その他家畜多数。

三陸大津波

重軽傷者は、村でたったひとつの医院を開業していた柴琢治宅(元は鈴木姓)に運ばれた。電信電話は不通、海路は船がない。

陸路は寸断されて3方峠越えとなり、やっと赤十字から軍医と看護婦たちが救援に来たのは3日目だった。それまで家内と川目と山家方面の住民の応援を得て、自宅を開放、病室として看護に当たった。それでも不足で、兄の太仲の家まで借用、3日間、彼は一人で80人の負傷者の治療に寝食を忘れた。

その時、私の妻の叔父の舅磯崎家の先代留右ェ門が、漁師の食糧を蔵に保有していたが、開放して被災者家族を救済したのだった。それものち、有名な美談となった。

災害で村長も津波の犠牲となり、村の自治能力も根底から破壊された。村議は3分の2が奪われ、村は舵を取られた船のようだった。

32歳で村長

この村を救援できる人物は柴琢治以外にない。そういう村民の熱望で、彼は村長になった。時に32歳の若さだった。不安の中で医者の仁術を神様のように信仰した村民たちの熱い心の結果だった。津波のあと、村長席は空席だったのだ。政治力もあり、才能と実行力に富んだ青年村長の登場であった。

柴琢治にまつわる話は実に多い。武勇伝は多分に誇張されて伝えられている面も多い。私らにしても、生まれる前から明治末期の事件で聞いた話が九分通りで、いわゆる〝見てきた嘘”のような部分もある。

その中でも有名な〝五葉山檜騒動″は、屋根まで檜の柾目ぶきだった文化財ともいうべき建物が消えたということで、ここに書き残したかったわけである。

復興に奔走

さて、青年村長の柴琢治は、災害復興の手はじめに、釜石製鉄所横山久太郎に村有林を有期限売却。当時の金で7700円だった。この金の一部は、なにを置いても必要だった漁船漁具の購入資金にあてられた。そして、津波で流失した役場をはじめ、郵便局や駐在所等を建築した。道路を拡幅、橋の架設も行い、村政をようやく軌道に乗せた。

村議会はたびたび開かれたが、議論百出してもさらに強力な村の再建策は見い出せなかった。柴琢治の腹案で釜石製鉄所に再度、村有林を売却することを決議、その成否を彼に一任した。

全責任の彼は、以前、木炭用雑木を売っていた横山久太郎に、上物の家具、及び建築材を前払いの形で、7700円の範囲内で伐ることで売った。

しかし、横山はすでに上物の用材も伐り、小白浜から船で東京方面へ運搬して草大な利益を得ていたので、村有林には立木は少なく、地続きの国有林でなければ金になるような木はない。

あいまいな境界

ここで問題となるところがあった。村有林と国有林の境界があいまいで、林区署の地図と唐丹村の地図が食い違っていて、村有林が国有林になっていたことだ。
そうと柴琢治がわかったのは、父・三折が明治のはじめに税金を納めて、五葉山の一部を部落有林として買った書類を見ていたからであった。

廃藩置県当時、伊達藩の膨大な山林と原野に所有権のある者は、届け出るように、との通達があった。「明細図と1町歩につき1両の金子を納入すること。届出なき土地は国有とする」というものであった。柴琢治の父・三折は、部落の人々の同意を得て、地図を書き、金子20両を納めて20町歩の土地山林を取得したのだった。

それがいつの間にか国有林にされてあった。林区暑が役場の書類も地図も見ないで、勝手に国有林にしてしまったらしい。廃藩置県後の山林原野の間違いは大混乱して、長く事件として後々まで尾をひいた。

波乱の端緒

当時の盛小林区署は喜福から100メートル地点のところにあった。柴琢治はそこに出向いて、署長に山林境界の測量に唐丹村へ出向いてくれとおねがいして、承諾を得ていた。その測量の日はあいにくの雪降りだった。

調査は地図の上の机上調査だけで終わり、小林区署員一同帰って行った。村長の手腕と才は、見事に万事をうまくいかせたかに見えたが、柴琢冶波潤万丈の生涯となる大事件の端緒であった。

境界問題がこれで解決したわけではなかった。山林は釜石製鉄所に一万円の高額で売られ、売買契約書が交わされた。それによって村の窮乏は救われたものの、再度、境界測量が実測で行われ、国有林の盗伐事件として五葉山檜騒動に発展していったのだ。

総轄的な責任はむろんのこと柴琢治村長にかかってきて、やがて盛警察署から出頭の令書が来た。

さっそく出向いて、明治初年の図面を証拠として、申しひらきに努めることになったが、小林区署には絵図面も書類も皆無だった。取り調べもなんの進展もなく、警察から出てきた。

利口な彼は、このまま2度目の呼び出しかあれば、5日や10日で村に帰ることは難しい、と判断、村助役、収入役、議長等にも万事を託し、妻子、使用人には「当分、雲隠れする」ことを言い含めて家を出た。

鍋倉山へ

村中は「村長様が姿をくらました」との噂でもちきりとなり、営林署がきても警察署員が来ても知らぬ存ぜぬで口を封じることになった。

村長は下男二人に言いつけて、鍋倉山谷の小高い峰の2カ所にあばら小屋を建てた。外からは林の中で見えにくく、逆に小屋の方からは沢道を遠くの方まで見通せるという〝砦″として考えたものだった。そこはちょうど洞岩があって、その下は雨が降っても漏れる心配がなかった。

夜具ふとんの類と食器などは川目の自宅から運ばせた。護身用として、東京での巡査時代に入手したと思われるブローニングピストルと自慢の狩猟用の村田銃を実弾火薬つきで持参した。これは護身ばかりでなく、実際に狩猟にも使うためであった。

こう書くと、なにやら孤独の一人暮らしを好んで引っ込んだようにとられるが、彼は豪胆そのもので、警察を恐れて萎縮しているような人物ではなかった。一面では女なしでは暮らせないような男で、一方、村からは村内状勢が逐一連絡された。食事も届く。衣類などの差し入れも行われる。夜ともなればたまには里下りもして来る。

もともと柴琢治は盛の町の中にしばしば姿を見せていた。私の向かいの出羽たたみ屋の娘・おがっちさんは、彼の3度目の妻だった。このおがっちさんには、事件の主題となった総檜、総2階の豪壮な料理屋が建てて与えられた。「寿屋」として営業させていたのだ。もちろん気仙郡下随一の建物だった。

津波のあと、どういう訳か料理屋、飲食店、モッキリ屋などは大繁盛。

お尋ね者

盛税務署のあった地の前身であった「作楽亭」も桜場にあって、負けず劣らずの盛況だった。不運にもこちらは桜場の大火災で消失した。気仙大工の技術の粋が結晶した建物だった。新築落成したその夜のうちに燃えてしまった。私の生家のうしろ隣りだった。西風の強い日だった。五軒長屋が火元で、原因は提灯の置き忘れだと言われた。

この騒ぎのとき、ほっかぶりをして顔をかくした中年の男が、作楽亭の娘さんを背負って助け出して立っていた。それは警察が捜査しているお尋ね者の柴琢治だった。

五葉山に十年隠れたとの話がもっぱらだったが、盛の町にも始終出入りしていたので、別に火事場にいても不思議ではない状況だった。盛の人々は彼を援護し、隠匿し合ったので逮捕されなかった。おまけに、警察側の捜査の状況は、手にとるように連絡されていたので出入りは自由だった。

檜の総二階

作楽亭の焼失は実にもったいない災難、世間から気の毒がられたが、当主・熊谷駒吉は親分肌の事業家。「水で儲けた金が火で消えた」と大声で笑い飛ばす剛気さだった。その後、総二階の曲り家を建てたが、景気は悪くなり、やがて人手に渡り、最初の税務署として貸家にされた。

話がそれたが、寿屋も同様にバッとしなくなった。

そして、やがて文字通り檜舞台の櫓の総二階を残して小白浜へと引き揚げていくことになる。戸主・柴琢治は警察に追われる身でありながら、小林区署から100メートルばかりのところに総捨の料亭を開き、堂々と営業させていたのだから、とんだ破天荒なことだった。国有林盗伐の汚名を着せられた男が、その材で料亭を建て、白昼から芸者をあげての三味線の音を響かせるのだから、それを聞かされる署員たちの気持ちたるや複雑だったろう。

おがっちさん

私にとっては、幼児の頃のことで、この時の細部の事情は知る由もないが、お尋者の主人を持った妻おがっちさんの日々も心おだやかなものではなかったろう。盛をひき払ったあと、小白浜でやっぱり寿家の名で開店していた。

昭和5年ごろ、小白浜へ行ったとき、招き入れられて、お茶をいただき、おがっちさんに初めて会ったが、美人というほどではなかったものの、でっぷりとした女丈夫。いかにも女将らしい風格だった。そのおがっちさんも昭和8年、大津波で寿家とともに海の藻屑と消え去った。

一方、盛にあった寿家の家屋敷はどんな手順でどうなったのか、明治末期に桜田家が引き受けて、初代喜福を開業した。初代は私らの生まれる前のことで、推測すら覚束(おぼつか)ないが、二代、三代、四代と代を重ねるにつれて隆盛を極め、気仙郡内一の割烹店として、宴会や集会に利用された。殊更、有名人、知名人の宴席として利用されることが多かった。

庭には、天神山の桜と同時に六十数年前に吉野桜が植樹された。二階軒下には数百個の電燈が灯され、花見どき、昼をあざむくばかりの照明が幻想的で、美景この上なかった。

名残りつきず…

その後、戦後になってからは、生活様式そのものが変わって、大宴会場や、結婚式場、それを兼ね備えたホテルといったものが建った。営業面で競争が激しくなった。

四代目当主は不幸にも早世された。女将まささんは悲しみを乗り越えて大英断、喜福の看板をおろしたのだろうが、四代目の弟さんには大船渡プラザホテルの桜田氏がおり、女将の末弟には独力でモスバーガーを拓いた桜田慧さんがいる。これらの人たちがアドバイスして大転身を遂げたのだろう。六十有余年、陰に陽にお引き立てをいただき、お世話になった私としては、メゾン桜田の永遠のご繁栄をお祈りしたい。

喜福の思い出は名ごり尽きないが、残念ながら市内の文化財がまたひとつ消えた。

枯れゆく名木〝樅″を惜しむ

今も盛六郷を碑睨

名木・洞雲寺の樅の木は樹齢600年とも、それ以上とも見える。洞雲寺ご開基以前にそこにあった木であると思う。なぜならば、あの大木にしては根張りが見られない。たぶん下の池の底に根があって、お寺を建設の時、土盛りして小さな沢と共に埋めたてられたように思われる。

根元から腐れが上がり、中が空洞になったが、巨木の強さは、それに耐えながら樹齢を保っているのだろう。明治20年代の落雷で二又が折れたと言うが、私が子供の頃にはすでに屋根がかけられてあって、生木に屋根があるのが不思議で、よく見上げたものだった。そして50メートルもの高さに誰が建築したものだろうと、その度胸と技工に、子供心にも感服したものだ。

やがて昭和の中期に寺に遊びに行って驚いた。2メートルぐらいの樅の木に1メートルぐらいの太さの樅の丸太が寺の庭の真ん中のコンクリート参道に減り込んで落下
し、屋根は破損していた。その後、切りつめられて〝トタン”でカバーされたが、次第に枯れが目立ち、枝が落ち、樹皮も剥がれ、木肌が見えてきて昔の面影はなくなった。枯れた部分を切り詰め、これで三度目だが、自分の身が痛むようだ。

然し、自然とはよく出来ているもので、そのそばに、ざっと30年ぐらいかと思われる若木(後継木だろう)が1本生えていた。あの親木なら、あたり一面繁殖しそうなものだが、洞雲寺境内付近の山には一本の樅の木も何十年とも見たことがなかった。

後継木も親木に勝るような立派な立ち上がりだ。これがまた五百年以上も生い繁り、盛六郷を睥睨することだろう。何百年の雨風にも負けず、雷にも耐え忍び親まさりの巨木を成してくれ。枯れゆく名木・樅を惜しんで…。