土すがりの逆襲

寺の領地内に住居を持つ人は、昔は寺内の人と呼んだ。

桜場部落の住人は、ほとんど寺内の人だった。小学校もその類になって居た。

子供の遊び場も寺内である。ことに洞雲寺境内は、絶好のスリルを有する堂宇と、山あり池ありで、近い校庭よりも、ワンパク時代のガキどもの修練の場であり、今思えば身震いがするが、本堂の大屋根で遊び、天井裏で〝かくれもっこ″したり、時折り夜集まっては度胸試しなどもやった。寺内は開放的で、怒る人も、たしなめる人も居ない。墓場を巡れば食べ物には不自由ない。湧井戸の水は真夏でも冷水だ。子供等(私も小学三年)は皆、野猿のような毎日の遊び場である。

すがりの巣発見

本堂の南側の山坂で、土すがりの巣を発見した。初秋の晴れた、ちょう度今頃の季節で、蜂は冬ごもりの準備に出入りが凌いので、悪童ども相談一決で、すがりの巣を焼き殺すことに手を打って賛成した。反村するような利口な、かしこい子供など一人もいない。五、六人で杉の枯葉を集めて来た。チビスケの俺は本堂中央の須弥壇の前の燭台の上に手が届かない。チビスケの悲しさ、手が届かないので相棒一人呼んで、やっと馬印のマッチを、首このりして手に持った。

早速、杉枯葉を重ねた下にマッチを擦って点火したが、杉葉特有の香りが煙と共に立ちのぼった。火は思うように燃えなかった。煙を感じた土すがりは羽音をたてて、いっせいに飛び出した。悪道どもが皆避難すると同時に、本堂の奥から、六尺豊かな太い体躯の大和尚が、雷のような大声で、タッペ待てーと。金しばりにでもかかったように寺の前に立ちすくんだ。

〝毒の注射″

他のガキどもは皆逃げて、雲を霞と姿がない。着物時代の哀れ、木綿の浴衣一枚着て帯もしめず、紐一本、フンドシ、パンツなんて見ることもない。女の子も腰巻一枚巻いていれば上等なのだ。その浴衣、無フンの着物姿に、裾と袖口から煙にむせた、すがりが二十匹も飛び込んで、腹から股から、上半身は腕から背中まで遠慮なく毒を注射するのだった。こらえて立っている所に正面階段を足を踏みならして真っ赤な顔をして降りて来た。

説教下る

今思えば、名僧・清水孝詮大和尚である。暴力は振るわなかったが、三尺足らずのチビスケに六尺の和尚が、割れ鐘のような声で、寺を焼いたらどうする…と、頭の上から説教が下るのだが、寺を焼いたらどうする以外は何も覚えていない。二十数匹の土すがりが休みなく攻撃してくるのだ。だんだん気が遠くなるようだ。和尚の声は何を言っているのかわからない。

十分ぐらいの説教は、まるで半日程に長く感じられた。やっと解放されて素っ裸になり着物を裏返してほろったが、全身、ちりめん南瓜の皮のようにデコボコだ。

この間、部屋に飛び込んだ蜜蜂に射されて、ガキの頃と痛さに変りはなかったので、思い出のままに綴ってみた。

定義如来と芭蕉の句碑

連日、晴天続きの暑い真っ盛り。鉄道旅行の募集は、立秋になっても残暑はきびしいこの頃JR盛駅の企画だが、この暑さではとても老人の参加は無理だろう。同行の皆さんにご迷惑かけては済まない…と尻込みしてあきらめていた。台風十七号も日本海を北上して三陸沿岸地方は平穏無事に通過した。天気予報は九月二日曇り一時小雨と報道された。

定義如来参拝団へ参加

台風一過朝夕の涼しさは生物の生気を蘇らせる。老体も元気が出る。二日は定義如来参拝団の日程だ。急に心変りがして予報を信頼し、旅行団に参加を決意した。駅で係の職員に面会して申し込んだら、まだ募集人員に余裕があったので参加することが出来た。私の仙台行きは他に目的がある事を話して了解を得た。

一つは気仙綾里の名匠・花輪喜久蔵の建築した定義の堂宇を改めて観察して撮影する事。今一つは天神山の芭蕉の句碑再建がようやく実現出来る見通しがついたので、是非本元の句碑を確認して再建の参考資料にするのが目的だった。

いよいよ旅行の当日は予報どおり曇り。寝られぬままに三時に起床してゆっくり朝食をすませ、六時に駅に着いたらご婦人の顔で待合室は満員だった。特別列車は三両で、乗車したら部落別に各座席は窓に四人ずつ指定席になって氏名の札がはってある。その中に男性は四人だけの参加だった。定刻六時二十分発車で添乗員の駅員さんは五、六人ぐらいで親切な接待に恐縮した。竹駒駅までは途中から参加乗車でほぼ満席となった。

車内はほがらかで家業話や取り引き話をする者はない。年がら年中の家庭生活から解放されたような、嬉しさが顔にあらわれている。

捻蓋付のコップが配られた。大きな薬缶で熱いお茶を注いで回る。朝は寒いほどだったが、気温は上昇する。天井の扇風機は心よい風を配給する。一ノ関からは東北本線を南下する。支線とは乗り心地が違う。スピードが出る。複線だから無停車同様。大船渡線とは雲泥の差だ。車内では酒が出る、ブドウ液が注がれる、氷をコップに入れて回る…。添乗員は忙しい。サービスは満点。仙台駅からは宮城観光バスが配車されて待ち受けていた。列車もバスも実に豪華だ。だから疲労を感じない。

小雨の定義

定義に着いたのが十一時頃か。全員本堂に案内されて「家内安全・商売繁盛」等のご祈祷が催された。正面本堂前に大きな香炉。前は多勢の参拝者で線香の煙がもうもうとたちのぼる。深く頭をさげ合掌して参拝した。小雨がそぼ降る境内で山門から本堂鐘堂彫刻等まで撮影を終って、祈祷の終った一行と寺の前の食堂で昼食を済ませ、次の目的の芭蕉の碑の撮影の段取りを考えた。バスのガイドさんに尋ねても運転手も本町通りは分かるが、滝沢神社を知らないのだ。宮城県庁あたりと聞いているから県庁に近い所でバスを留めて下車させて下さい。帰りの列車四時三十分まではタクシーで駅に辿りつく事にしたら添乗の盛駅員の方が交渉して下さって県庁前を通ってあげるからと路線を変えてそのバスだけが県庁前で停車して下さった。勝手な願い心よく配慮していただき有難かった。

 やっと念願が

老人を心配したガイドの可愛い娘さんは先に下車して「これが宮城県庁です。向かい側に巡査の派出所があるから注意して横断して尋ねて見なさい。」と言ってくれた。バスと別れ、三叉路を渡って交番に行き、滝沢神社を尋ねたが、本町通りの地図を広げて見てもわからない。本署に電話をしたら、すぐに交番から五十メートルのところにレジャーセンターがあり、道路向かいである事がわかった。

県庁の隣りに十坪ぐらいの境内に赤い鳥居が見える。初めて見る神社であるが、時間がない。参拝を後にして撮影を急いだ。雨は晴れた。戦時中に空襲の被害にあったのか、総てが新調である。社殿は鉄筋コンクリート、灯篭も赤い。鳥居も真新しいが、探し尋ねる碑は接着剤で数ケ所張り合わせてあったが、昔の面影を残してあるのはこの三尺ぐらいの句碑だけだった。

春靄にひっそりと

念願かけてやっと巡り合った滝沢神社と芭蕉の句、遺跡、奥の細道。春靄(はるもや)の本家元句をしばらく拝観してレジャーセンターにタクシーを呼ぶ。電話拝借に行った庭で自家用車から中年の男の人が降りて来た。私が「耳が遠いのですが、タクシーを呼んで下さい」と頼んだら、「駅までなら送ってあげましょう。お乗りなさい」と先にドアを開けてくれた。四時三十分の団体と帰るのです。送って貰えれば有難い事です。お願いします。その間三十分の早業だ。世の中は親切が沢山ある事を感謝感激して夢にも見た芭蕉句碑の元句を拝観して涙が出るほどうれしかった。そしてお互いに気がせくまま車で駅まで送って下さった親切な人のお名前を知るよしもなし、心ばかりの謝礼をさせて戴いて駅前で別れた。あの親切な人を一生忘れる事はないでしょう。有難う御座います。

時計を見たら四時十五分、エスカレーターで二階に登れば改札口では皆が組別に 列をつくって並んでいた。添乗員の方は手まねきして呼んでいる。列車がホームにすべるように入った。今朝乗車した時と同じ配列だ。定刻四時三十分発車。仙台駅を出て松島あたりまではやや静かだったが、カラオケテープが鳴る。念願の定義如来の参拝をはたした心の安堵が百芸続出。唄あり、踊りは通路で幕引かずの余興が飛び出す。笑い声が車内に充満だ。帰宅を待ってる父さんに見せたい。実に楽しい一日だった。

JR盛駅の皆さんの手配のよいサービスと、一人の事故者もなく無事に盛駅に着いて解散したのは八時四十分頃だった。駅の皆さんはお疲れ様だった事でしょう。お世話有難う御座います。

薬剤散布の功罪

奥の細道「芭蕉の句」になんとなく親しみを感じるのは、我々老人だけであろう。笑うのは戦後の生まれで蚤(のみ)にも虱(しらみ)にも出合った経験のない年代の人々で、大正以前に生まれた人たちは、かゆいのを我慢して、さながら同居生活を続けたものだ。血縁の間柄であると思えば憎めない。目を閉じて思い起こせば珍談奇談は誰しも持っているだろう。

思い出の蚤虱…今では幻の寄生虫となり寂しさを感じ、なんとなく懐かしさが残る。DDTの輸入と薬剤散布の効果で害虫は絶滅して蚊も蝿も珍しい程になったが、その半面、自然の破壊も被害甚大だ。殺虫剤と農薬の使用規制を早急に制定の必要があると思う。

蚤虱蚊蝿害虫ばかりでない。春が来ても昔の様に鳥類も渡って来ない。夏が来ても蛙も鳴かず、蛍も飛んで来ない。小鳥の不足が松くい虫などの繁殖を来たし、多額の経費をかけ、ヘリコプターで薬剤散布をしては自然に生息する動物鳥類まで全滅の危機に追い込んでいるのである。

毎年の地域の事業の一つで、今年も七月三十日、私の地域では全面薬剤散布を実施したが、蚊も蝿もない楽しい暮らしは有難い事と感謝して居るが、一方で夏の夜のひと時のやすらぎを誘う蛙の鳴き声も、秋の夜の鈴虫の音も、コオロギもキリギリスも昨年以来、きく事が出来なくなった。

でんでん虫も今年はとうとう顔を見せてくれない。消えゆく自然を思う時、涙が出る程に寂しくなる今日この頃。薬剤散布の検討が必要かと思われる。

60年前の一大事件の思い出

越喜来に飛行機が墜落

小雨まじりの強い風の吹く、短い秋の日の夕方だった。突然、千葉脇三様(千葉薬店)のご来訪を受けた。急用である。越書来に飛行機が墜落したので、今から現場に行って写真を撮って来てくれるようにとの緊急の話で、朝日新聞本社からの依頼であった。

ペダルを踏んで現地へ

秋の落日は早い。三時は過ぎているので、どんなに急いでも越喜来泊の山林現場に着くのは夜になる計算だ。現在のように写真機材の進歩していない昭和四年十一月二十六日の航空機事故である。

マグネシウムを利用、写真撮影用に開発され、夜でも写真が撮れると宣伝した時代であるが、屋外で雨の降る様な天候では発光がむずかしい。場所が山の林の中とあってはピントを合わせる事も困難だ。要望の主は自動車を頼んでいけ、経費はなんぼかかってもよいのだから…と、せきたてられても山中の夜間撮影は初めてだ。とても自信などない。明朝、現場で夜明けを待つように行くからと言うことで相談し、やっと納得して戴き、翌早朝に暗闇を突いて、立根街道を自転車で越喜来峠に向かってペダルを踏んだ。

遺体は収容済み

峠の下の畳石の家に自転車を預り、旧道の細道を越え、小峠で右に下れば泊部落の沢道だ。昨日の嵐で雑木の葉が乱れ散り、ガサゴソと歩くたびに音がする。東の空が朝焼けして、昨日の嵐はどこへ行ってしまったか、静かな晴天だった。泊部落を右に、沢に登った山の南面の藪が墜落現場で、地元消防団員が救護と警護をしていた。遺体は前日に収容された後だった。

さて撮影の方だが、何しろ藪の中なので三脚の立て所がない。機体は雑草と若木に覆われ、見通しが悪い。左の松の木が小高いので、枝々をたよって登ったら、撮影距離もよし、視野も絶好だ。バンドを抜いて三脚を木に縛り、やっと撮影を終り帰路は今来た道を逆戻りだ。気持ちばかりが急ぐ。

午前中に仕上げて千葉薬店に届ける約束なのだ。帰り道は楽だった。峠の下から、デコボコ道をとばして帰って来た。

二、三日経って写真は新聞に掲載され、全国に報道された。噫(ああ)、田中実五郎少佐(当時中尉)は今年が六十回忌。陸軍航空隊所沢所属教官で、試験飛行中の事故と報道された。

察するに、八八式単葉偵察機(現在のセスナ機)で約五百キロの空を、遠く三陸の果てまで、燃料も欠乏したであろうし、強風にも吹きまくられて山腹に墜落したのであろう。職務訓練中の殉職で、二階級特進で少佐となる。

今年は記念すべき「60回忌」

地元軍人会と気仙教育会合同で三回忌を行う。昭和七年四月二十二日、越喜来町泊海岸の海を見晴らかす松林の中に田中実五郎少佐の碑が建立されている。思い返せば、今年は六十回忌に当たり、私も何か縁を感じ参詣した。山ゆかば草むす屍 - その通りで、六十年の長い間には時代も変り、一人の軍人の事故死は忘れられたか代替りして、知らぬ人が多いのか、ぼうぼうと雑草が繁り、誰も拝んだ様子もなかった。出来るだけ草を取り、しばし合掌して六十年前を思い浮かべ冥福を祈って碑を辞した。

ぜひ追悼式を

地元村社の宮司は親戚関係であり、訪ねてみたら在宅で、今日の話を切り出した。神職にあるのを幸いに田中実五郎少佐の六十回忌の慰霊と追悼の供養の式を挙行することを進言して帰った。追悼式にはぜひ参列したいと思う。

盛町村社の変遷

移り変わり多かったお宮

気仙の村社を拝巡してみて盛町の村社ほど移り変わりの多かったお宮はないのではないかと気がついた。本町通りの中央から平らな自然石を敷き詰めた参道はお伊勢街道で、五十メートル程進み、石橋を渡り、そこからは神域となり、左に銅板張りの大きな燈篭があって、一の鳥居が天空高く聳(そび)えて、どっしりと立っている神明鳥居とわかる。

そこからまた石畳をカラコロと下駄の音を響かせて五十メートルほど進めば、左に営々たる平屋建ての柾(まさ)ぶきの屋根の郡役所で、右は金毘羅様の石塔に池を眺めて神官様のお住まいがあり、右隣りは盛町役場で左隣りは神社の行屋(道場)だ。どの建物も平屋で、杉皮ぶきに多数の石が並べられている。この役場に雇(やとい)として就職したのであるが、雨の降る度に雨漏りがしてバケツの行列だ。神官様のお宅も同様で、当時は雨の漏らない家屋はあまりない大正の頃の話だ。

参道に進み石段を登ると、古木の八重桜や三ツ又の黄色の花が見事に咲いていた。二十二段の石段を登れば二の鳥居で、お手洗水には、年中湧水が満々と流れて溢れ、冷たい水は喉を潤してくれる。そこから六十八段登ると左右の狛犬が参詣者を迎えている。

村社・天照皇大神は千古の杉木立ちに囲まれ、すがすがしく、氏子崇敬者のやすらぎの場であり、心の拠り所である。昔の写真を探したが見当たらず、これは元の拝殿を元の位置に組み合わせた写真です。夏の暑い日など、役場の休憩時間にこの石段を何度登り降りしたことか。ほんとうに思い出深い場所です。

大正十一年、この拝殿が本殿に改築されて約二百五十七段。高い天神山の山頂に移転して行屋(道場)の建物を拝殿として遷宮鎮座し、戦時中の祈願等はここで行われた。

社会は日進月歩で、公園の必要性から天神山は大きく改造され、昔の面影はだんだん薄くなり、懐しい思い出が消えて行くような淋しさを感じる。ここで私の知る限りを書いてみたい。

薄れる昔の面影

昭和十七年、三度目の遷宮となり、今度は時代に並行して新築の計画が提案され翼賛、壮年団長・鈴木房之助氏が心血を傾注して崇敬者氏子の総力を集中し、郡下随一の社殿と付属建築物が整然と設備された。

以前の本殿は学問の神様天神様を遷座し、旧拝殿は参篭殿に改築された。神社の地形は郡内一の高台で、石段二百五十七段も郡内最高であり、境内の面積も、どこの村社よりも広大である。

昭和五十一年四月八日、春枯の火早い季節に不慮の火災に遭った。崇敬者、氏子の心を逆なでするような災害であった。昼火事で、山林等の類焼はまぬがれたが、村殿は全焼してしまった。氏子一同、再度の努力と協力で、不燃建築の設計、鉄筋コンクリートで昭和五十二年十一月十二日、現在の社殿が落成した。崇敬祖神天照御祖神社が遷宮した昔から数えて四度目となる。

思い返せば、大正・昭和は目まぐるしい年号だった様に思われる。神様、永遠に市民をお護り下さい。昔の来歴は「気仙神社総覧」をお読み下さい。

黒松の男性美・洞雲寺の古木

岩手の樹は赤松と指定され宣伝されて、県下の名所旧跡は赤松が全盛を極めつけているようだ。松の木も女松が重要視される様な錯覚を感じる。

名所碁石海岸も、高田松原の景観を誇示するのも男松が繁茂して観光の役割をはたしているので黒松(男松)の男性美も忘れないで観賞して下さい。東海新報掲載の「道端の松」を拝見しても、すべて女松(赤松)ばかりで物足りない気がするので、名木黒松(男松)も掲載していただきたい。

樹齢四百年位とも推定され、洞雲寺創建、開山時代とも言われる黒松の巨木は、三陸沿岸で唯一の天然記念物と思われる。樹高二十メートル、根まわり四メートルで枝張りも優美で実に見事な直幹は天空高く聳(そび)える姿天下一品だ。

隠れたる名勝・あやめ二題

梅雨の被害は北東のやませ風の影響が甚大だが、内陸地方は沿岸地域よりは悪影響はないようで、あやめの開花も十日も早い。

大船渡市内も九日以来気温が上り、三十度をこす真夏の暑さとなった。冷害を心配した農作物も、どうやら急速に発育を促すように見える。

市内の花木もさつきは終り、遅れたあやめも一斉に咲き揃った。七月七日は日頃市町、新沼正助様の庭園を訪れて花を観賞した。毎年お邪魔しているのだが、実によく管理が行きとどき、見事な咲きぶりだった。何より地形に恵まれ、水が豊富で清水が他に満たし、錦鯉が遊泳して広大なバックは五葉の秀峰を眺望できるなど最高の環境である。

七月十日は引続き夏雲が西の空からちぎり綿のように東の方に流れていて朝から暑い日だった。今日は碁石のあやめ見物だ。民宿浜守館の庭園を拝見させて貰う予定で、電話で咲きぶりを問い合せたら、昨日まではあやめ祭りで多忙だったが、二、三日前までの冷え込みで例年より遅れたが今は満開見頃とのご連絡。友人も誘ったが、都合で参加者はなく、息子が車を出してビデオカメラ持参で送られた。

浜守館の庭前から見事なあやめが迎えてくれた。何十種類か、本宅を取り囲んで段々の裏山まで一面の花、花、花、菖蒲だ。

あやめ祭の宣伝で六月二十六日に行った時は気温が低く、予定より遅れて蕾がかたかったが、今日は見事に開花していた。

碁石海岸からほど近い丘の小高い花園からは、眼下に景勝碁石浜を見おろし、遠く太平洋を見渡せる。観光の環境としては三陸沿岸の一つのリゾートである。二十日頃まで見られる。五葉山麓のあやめと海の見えるあやめ。他地区では見られぬ特別な名所である。

今出山登山

青年会講所主催の例年行事の一つに、市民の「今出山登山会」がある。六月十一日、参加募集の記事を見て、毎日裏庭に出ては双眼鏡で今年のツツジの咲きぶりを観察し、心は山頂を思い浮かべている。昨年は六月六日に友人の車で登った。真っ赤にもえて市民を招いている様だったが、今年は椿と同様にツツジも異変のようだ。山には一つも花がついていない様だ。

それでも山好きな自分は登って山の様子をこの目で確かめて見たいのだ。心は逸(はや)るが体力はもう限界だ。それでも登りたい。無茶ではなく山を愛する者の共通の心情だ。頂上まで車で登れる山は気仙の三霊峰の中では今出山だけだ。

荷物運般車に便乗

倅が私の気持ちを察して、登山の前日、青年会議所に電話で交渉してくれた。準備のため職員が荷物運搬などするだろうが、その時は何とか老人も荷物と思って運搬していただけないだろうか…と。「窮すれば通ずる」のたとえ通り、心よく承諾して下さった。中井橋で待つようにとのことだった。

喜びは他人にも分けたいのが人情で、明治の友達が近所に居る。早速誘ってみたら、初めての今出山登山と言うことで私以上に喜んでいた。明朝八時半の約束をし床についたが、勝手知った山の風景が思い浮かび寝つきが悪かった。寝られぬ時は新聞投稿用の原稿を書くことにする。夜が明け、朝から快晴。六時半起床と日記に書く。

老体二人、早めに出掛け、中井大橋で待つ。時間通りに車が停車した。驚いたことに、荷物車ではなく、老人二人のためにわざわざ乗用車を配車して下さったのだ。

もったいないやら申し訳ないやら感謝のほかはない。中井の刈山の集合場所には、男女、小学生まで、すでに二、三十名は集合していた。出発時閉までには参加者名簿に記入。歩こう会の部員と合流して三百余名の大登山隊となる。

主催者の注意や説明等があり、予定時刻九時半の出発となった。私等は、ひと足前に発車し三十分で山小屋前に到着。先発の世話係の青年たちがテントを張ったり連凧の試飛などをやっていたが、山頂は珍しく無風状態で、なかなか凧が揚がらないので断念したようだ。そのうちに車の連中が次々に登って来る。

残念′海岸線は濃霧

電波の林の塔までは一キロ以上の地点。何としても頂上からふる里のたたずまいを眺望したい。出来れば金華山も眺望したい。三陸沿岸の海岸線を見たいのだ。残念ながら沖は濃霧で、沿岸は霞んで見通しが悪く、唐桑崎がやっと見えるぐらいだった。氷上山も墨絵のように中空に浮かんでいる。市内もベールで覆われたようで、カメラの遠望は無理だ。

暖冬異変は高い山にも悪影響を及ぼし、ツツジも花を咲かせないのだろう。それでも自然とは恵み深いもので、谷ウツギの桃色の花は道側のアヤメの紫の花と咲き競っているようだ。名も知らぬ木々の花々には心が安らぐ。

真夏が過ぎると、強力に茂りを競って群落をなしているあざみの花も咲くだろう。その後は各種の木々の紅葉へと秋の今出山は錦秋のたたずまいを誇る季節がやってくる。その時期が来たら、同年輩の老人たちに呼びかけ、希望者を募り、山頂から生まれ故郷を眺めたいと思っている。私が今出山に行って来た話をしたら、おらも行きたいが、心がはやれど足がついて行けない…車で登るなら一度は登りたいと思っている人たちが多勢のようだ。

話は横道にそれたが、現地に到着し持参の弁当を広げるときの楽しさ、青年会議所の心尽しのナメコ汁に焼ソバ等、山で食べる飲食物の味はまた格別だ。下界を眺めながらの憩いのひと時には、山小屋前でのクイズや輪なげ、最高齢者と最低年齢者の表彰等、賑やかに行われ登山会は三時に終わり、各自下山を始めた。私等二人は車で送っていただき無事帰宅した。

楽しい登山に老人のためのご配慮は忘れることの出来ない感激でいっぱいです。青年会議所の皆様ほんとうにありがとうございました。この次は大勢の老人を誘って、私等の嬉しさや楽しさを共にしたいと思いますので、ご迷惑はお掛けしない様に注意しますので、どうぞこの次の計画にもぜひ入れて下されば幸甚です。

今出山の詩

○年に一度は登ってみらい四季の眺めは今出山
○ツツジ花咲く今出の山は真紅に燃えて誰を待つ
〇五葉氷上の高峰にゃ負けた月と朝日は今出山
○山の頂上から四方を眺めほんとに絵の様な山と海
○秋の尾花と紅葉の頃は今出の鹿は誰を呼ぶ

水沢・黒石の正方寺を尋ねて

我が家の宗門、この目で

五月雨の降る六月十八日、公民館婦人部主催の日帰りミニ旅行の話は今まで再三聞いていたが、東北の名刹で吾が家の宗門・曹洞宗第三の本山である大寺院参拝の機会を逸していたが、婦人部の計画で、男の出る幕ではないと思っていたら、御仏の引き合わせか、お慈悲なのか、募集人員が予定より不足で再募集となり、老若男女総参加となった。

喜び勇んで老友を誘ってみた。嬉しい事を独占出来ない性分で、二、三人誘ってみたが何しろ急な話で都合がつかなく、それでも老男三人が顔を揃えた。当日は曇り空だったが、迎えのマイクロバスで出発した。

黒石の正法寺まで一時間半で到着、総門前で下車した。まるで六百年前の世の中にでも戻った様な気分だ。老杉の林の中、青葉の陰に聳える萱ぶき屋根の大伽藍と昔のままの自然石の入り口の石段と、見る物総ては古色蒼然たる佇まいだ。霧雨が降り、あたり一面梅雨空に煙っている。芭蕉に見せてやりたいような風景だ。

拝観者の入り口で説明書を渡され奥に進む。本堂の天井の高いのには驚いた。曹洞宗は禅宗で派手を戒め、内部は華麗な所はない。庭園も広大だが、枯淡で閑寂の美の趣きです。すべては佗と寂の連続だ。私の期待していた通りの雰囲気で、予定時間を過ぎるまで、心おきなく撮影できた。

一行はバスに乗り私の帰りを首を長くして待っていた。雨もあがり、無事発車オーライとなった。

常舞台の思い出をたどる

盛町東部地域に字馬場がある。その昔の馬の調教や運動場である。幼い頃一度だけ草競馬を見た記憶がある。鐘と太鼓は洞雲寺から拝借して、何かの合図に打ち鳴らすと賑やかな農耕馬まで出揃って、馬場を駆け巡る。それでいまだに「馬場」の地名となっている。

相撲と芝居

相撲と芝居は、中井川原で興行と決まっていた。相撲は、本場所、中場所、小場所と巡業場所が指定されており、本場所は東京で、中場所は三陸沿岸では盛町の公認中場所と指定されていて、毎年一度は日程の通知を受ければ、地元世話人は興行の準備の役をする。

杭や長木と筵を集め、小屋掛けから枡まで割る。枡は五尺角位で、土俵前の四方一等席を枡席とし、入場料のほかに枡料を支払うことになる。

そのほか、土堤の斜面を利用して高桟敷があって、これに上がって高見の見物だが、桟敷料を取られる。

私の祖父は相撲好きで、前の晩に弁当を準備させておいて、家内揃って見物に出掛ける。当日は、高い櫓の上から夜明けと共に呼び込み太鼓が六郷に鳴り響く。相撲好きには胸がわくわくするような瞬間だ。

初めて見物したのが、有名な天下の横綱梅ヶ谷に常磐山だった。近郷近在からの見物が当時500人もあった。満員で、紅白のお礼餅を撒いた覚えがある。

相撲は川原で、芝居、軽業、曲馬は町裏の畑に小屋掛けする。電燈がないのでカーバイトと瓦斯燈が灯され、明るいものだった。

入口の軒には演技のペンキ絵が並び、曲馬、軽業ではクラリネットとトランペットの音楽で入場をせきたてる。明治の終わりは月二、三回の巡業で、次の巡業が待ち遠しかった。

八百人も収容

そして、県下随一の常舞台の出現となる。

明治の末に500人以上入場の出来る設備の建物はほとんどなかった。満員札止めとなれば800人の収容も可能だったと言う。

地元有志の株式で、盛座、字砂土場に堂々たる威容の常舞台を完成して、座開には東京歌舞伎の一座を招聘して、柿落しには菊五郎、左団次、梅幸級の役者が顔を揃え、出し物は、寿三番叟、阿波鳴戸、一ノ谷熊谷陣屋の段、勧進帳など。うる憶えで、あまりよく覚えていない。

観客の九分九厘が歌舞伎芝居を初めて見た者ばかりだ。義太夫は古くから習ってる人も居たが、劇場が出来て本格的な役者の演技を見たのだから反響は大きかったろう。

街路は黒山の人

以来、時代劇、壮士芝居と年に一度か二度の地方廻り劇団が来て、楽しかったものだ。

また、顔見世の街廻りが見事で、一流役者となれば全員が人力車に分乗して、その日の出演姿で宣伝に車を連ねる。要所要所で、座長格の役者が解説をやる。街路はのんびり黒山の人出となる。

車上に立って、説明者は慣れた口調で声張りあげて「とざい東西、本日上演いたしまするは、第一場は目出度く寿三番叟、第二場は観客の涙を絞る父を尋ねて幼児が阿波の鳴門全通し一布、続いて第三場は一ノ谷熊谷陣屋の段、大切りは地元御存じ仙台萩政岡忠義の段」と説明が終わる。

前の車の太鼓が出発の合図に打ち鳴らされる。次の町かどに進行する。各車輌には役者名が染めぬいた職りが斜めに立ててある。

初めて見る常舞台、それから新派の壮士芝居が来て、出しものが変わり、劇場となりでは女角力も何度か見た。

町の有志の演芸会も度々開催し私も好きで出演した。あらゆる演劇、演説と活用されたが、映画全盛時代となり、大盛館と改名された。横山拳骨など、映画説明者として人気があった。

大盛館もやがて時代に沿って衣がえした常設館となった。専属映画弁士として山田秋声の登場となり、彼一代の映画の製作は大船渡線鉄道開通の記録映画「気仙の秋」のタイトルを完成したが、不運にもフィルム編集、その他の事由で封切公開は冬の寒い季節となった。天候にもはばまれ経営困難となり、失跡を余儀無くされ、彼の運命は大きく変わった。

〝幻の殿堂″

芸術文化の大殿堂とともに残ったものは、盛大に発表会を開いた大船渡音頭と小唄がある。盛座(大盛館)は、多くの思い出とともに幻の殿堂として消えたのである。

なお、この場を借りてお願い申し上げます。大盛館が消えたように山田秋声氏の作品「気仙の秋」の映画フィルムも彼とともに行方不明なのです。経営した街のクラブ食堂は娘さん夫婦が継続して繁盛しておりますが、唯一の手がかりとしてお伺いしても生死の程も不明とのこと、せめて「気仙の秋」 の映画フィルムの有無をご存じの方はお知らせ下さい。