追憶私の東京

大正13年初夏 月桂寺にて。

辻の愛娘との悲しい別れは、私の修行初期に大きな衝撃を受けたが、私には一生の運命を決定づける希望の灯りが見えて来た。

真昼の逃走

浅草玉姫町の職業紹介所に勤務の辻の甥に、かねて連絡をとってあって、「三ツ大写真館」はどうしても出なければならない。夜逃げではない。真昼の逃走なのだ。今思い起こしてみれば、叔母から四円五十銭もらって、その頃、大流行の鳥打ち帽子に餅の単衣着物に下駄ばき姿、全財産の入った竹篭行李を担いで市営電車に乗り込んだ。

車葦さんが、その格好をみて、何事ですか?と聞く。

ハア、逃げんでがす。まだ盛弁が抜けきっていない。まあ急いで乗んなさい…どこまで?ハア、大塚終点まで行ぐんでがす。片道切符を五銭で渡された。満員電車の中は、あちこちから、クスクスと、嘲笑しているのが耳に入る。東京に出てきて初めてかいた恥だ。

それでも、渡る世間には嘲笑ばかりではない。助けの神もたくさんある。幸運にも私はその神々に恵まれ、私の修行はここから軌道にのりはじめた。辻助左工門さんの口ききで、東京では有名な九段坂の「野々宮写真館」(現在は無い)に入門することで面接に行った。

主任技師の山崎静村先生は初対面の印象が実に立派なお人柄で、話すこともやさしく大変親切であった。ところが、私の弟子入り先はその店ではなかったので意外に思った。説明をだまって開いて指示に従うつもりでいた。三日間程静岡に出張するので住所を書いて帰って待つように、都会は恐い所だから気を振らずに待てと言われて叔母の家で待つこと二日目の午後、親切丁寧な手紙が速達で配達になった。

山崎先生の指示

封を切るのももどかしく、文中には「待たせて申し訳けない。今からすぐ来るように」との内容であった。急いで九段に出かけて行った。山崎先生がお見えになって、元経営していた人形町の「三笠写真館」に行くように話された。その間、野々宮の営業内容のお話をなされ、現在、技師と門下生が二十人は働いている。あんたが入門すると二十一人目だ。一年、二年は下働き、本業が身につくのは五、六年以降になるから、こんな会社では修行にもならない。個人経営の確実な技術家に弟子入りした方が良いと教えられ、人形町に行って受け入れられなかったらすぐ引き返して私の所に来なさいと言われて「三笠写真館」に向かった。

玄関では、先生である館主が応対に出た。

今日の午前中に一人入門したばかりだとかで、困った様子だった。山崎先生の紹介を断るのが申し訳けないと、非常に平身低頭だった。もしだめだったら別な方法を考えるから引き返して来るように言われましたから…と暇乞いして再び急いで引き返した。夕闇せまる夏のバラック街の灯はまだ灯されず、野々宮には電灯とガス灯がともり待ち受けてくれた。

これからが私の一生忘れ得ぬ運命の別れ目、そして神の導きで幸福の糸口を掴む第一歩を踏み出したのである。山崎先生は早速電話をかけ、五分と経たぬうちに牛込甲良町1に行くよう、案内図も書いてもらい、夜になり申し訳けないが大至急「橋本写真館」に行ってくれ、とせきたてられ、案内図の通り新宿行きの電車に乗り、やきもち坂2で降りた。街路から両側にウィンドウのある門をくぐり、五分間ぐらいで洋館の建物に入った。すぐに門下生室に入れられて間もなく館主の橋本良知先生に面接した。岩手から出て来たことなどから話しはじめ、その後、種々、修行中の注意があった。

その中に深く心に刻み込まれた格言に〝江戸ッ子にはなるな、不要な友達は作るな〟 と言うのがあった。私はこれ等の注意はかたく守り、寝る間も惜しみ修行に励んだ。明日、叔母と一緒に改めてご挨拶に上がりますからと申し上げたら、その必要はない。山崎君の紹介で充分だから荷物があるならすぐ取りに行きなさい…と。そこには仁義も何もない。まさに信義あるのみだった。涙が出るほどうれしかった。日蓮本法会の副会長でもあられる熱心な人でもあった。

同郷のよしみ

また、その会の会長である赤坂見付の「秋尾写真館」の館主は、乃木将軍3最後の写真撮影をされた方であった。その店には気仙沼から上京した天才技師とも言われた、林金原さん(遠野市須藤写真館の甥)が居て、私も時折り訪ねては教えを受けたものだ。郷里では離れていても旅では同じ東北人であり、隣県の誼(よしみ)で親切に指導を受けた。その、さすがの天才(先輩)も薄命ゆえに早逝されたことが惜しまれてならない。

私の人生に大きな英気と影響を与えて下さった恩人・助左工門様、この秋までには必ずお逢いして、思い出ばなしをさせていただきます。私は八十三歳の青年です。八十八歳は壮年真っさかり。お元気でお待ち下さい。是非とも国立公園西伊豆もまた見せていただきます。ペンション経営の知世子様におねがいします。私の恩人であるご両親を、どうぞ大切にして下さい。

63年ぶり私の東京

JR・EEキップを利用して四十年ぶりに愚妻をお供に旅行した。たった三日間の短い日程だったが、初めて見る日光と、火防の神様として信仰の厚い古峰神社詣りと、長い間の念願であり六十三年ぶりのなつかしい東京を尋ね歩いてみたかったので、その時期も、私が初めて修行に出た桜のつぼみが開花直前の四月を選び、なるだけその思い出の実感を深めたいと心掛けた。

オイ宅で旅装とく

上野着の新幹線には、三男の出迎えで六十三年前と同様に、大正生まれの甥の家に旅装をといで夜の更けるまで話しが続くのだった。

翌日も春うららかな晴天、桜は満開となり、あらゆる花々も咲きはじめ、当時の十九歳の姿がまざまざと蘇るのだった。三男もまた来て、甥の車で四人揃って第二の故郷を訪ねに出掛けた。高層ビルもデパートも私には何の魅力も感じない。

私の修行中に大過なく見守って戴いた神様と恩師の面かげ、家族のことなど、休日に楽しく遊んだ場所とか、時々訪れては小遣いをもらった叔父・叔母が故人となった懐かしい場所と家等々が目に浮かぶ。その中には実に悲しみ深い所もある。

叔母の一人娘、春子は小学校六年生(当時)で、成績優秀、五年連続優等生の秀才。その上、色白の美人で、隣近所では評判の娘だった。両親は、この娘に大きな期待をかけたのだったが、その娘は道悪く腸チフスにかかり、板橋の病院に入院となった。

とんだ写真館

私は牛込の東五軒町の写真館に入門して三カ月目、具真の暑いある日のことである。実はそこの主人は写真師ではなかったのだ。本人は事業家であり、技師を雇っての経営であることに気づいた。話し合いをし.てもー向に解雇してくれないので、同僚と共に荷物をまとめ、日中、電車に乗り、巣鴨の叔母の所に逃げ帰ったのである。

叔母の家には誰もいなかった。春子の入院で、つきっきりで看病しているのだった。

叔父は建築の請負仕事で、家には大工職人が二人住み込んでいた。田茂山の叔父は巣鴨刑務所の看守でこの家に下宿していた。

それからが大変である。慣れない四人分の炊事、洗濯、病院に弁当を届けたりと、毎日テンテコ舞いである。昼、夜と交替勤務の叔父にも弁当を届ける。

中仙道板橋の昔の宿場町、滝の川通りを近回りして毎日、近藤勇の墓の前を通り合掌し、春子の病気回復を祈りながら、三キロの往復が七日間も続いた、春子の病は入院以来、悪化するばかり。そして幼い蕾は哀れ開花もせずに天逝したのである。叔母は看病疲れで倒れてしまった。そこの場所は、三十五歳の志士・近藤勇が板橋の刑場で露と消えた所、一人の姪の運命の灯が消えた所と、私には忘れられない場所となった。そしてその翌年の大正十四年、今回の旅行の案内役をした甥子が誕生したのであった。

私は別に近藤勇を崇拝している訳けではないが、あまりにも思い出が深いので、調布の道場と生家と街道の向かいの近藤神社とその胸像を拝観して、叔母と春子の冥福を祈る。

何もかもが…

四十年ぶりで訪れた板橋の墓は建て替えられたのか、変わっていた。近藤、土方、井上の三人の名が彫られていた。空襲で破損したのであろうか、以前は近藤勇の墓一名で、五、六本の松が植えられた小さな公園であった。驚いたことには、恩師宅も、お世話になった町内の隣の家々も元の面影はひとつも残っていない。その辺で事情を話して聞いても誰も知る人もいない。楽しかった神楽坂の賑わいも、毘沙門梯も鉄筋コンクリートに建て替えられ、浅草の観音様も仁王門も昔の物は何もない。

”私の東京”は心淋しい幻の東京と化し、二日目の予定は終わり、まるで浦島太郎の心境だ。

今夜は埼玉の三男の所に宿泊。買ったばかりで近代趣向の間取りの家だった。三男の五人家族に仲間入りし、老体をゆっくりと休養してEE切符の最終日とした。短期間ではあったが、おかげ様でわずらわしい切符買い替えの手数がなく、乗り放題で心良く旅行が出来たことを心から感謝申し上げます。JR様、ほんとうにありがとうございました。