移り変わり多かったお宮
気仙の村社を拝巡してみて盛町の村社ほど移り変わりの多かったお宮はないのではないかと気がついた。本町通りの中央から平らな自然石を敷き詰めた参道はお伊勢街道で、五十メートル程進み、石橋を渡り、そこからは神域となり、左に銅板張りの大きな燈篭があって、一の鳥居が天空高く聳(そび)えて、どっしりと立っている神明鳥居とわかる。
そこからまた石畳をカラコロと下駄の音を響かせて五十メートルほど進めば、左に営々たる平屋建ての柾(まさ)ぶきの屋根の郡役所で、右は金毘羅様の石塔に池を眺めて神官様のお住まいがあり、右隣りは盛町役場で左隣りは神社の行屋(道場)だ。どの建物も平屋で、杉皮ぶきに多数の石が並べられている。この役場に雇(やとい)として就職したのであるが、雨の降る度に雨漏りがしてバケツの行列だ。神官様のお宅も同様で、当時は雨の漏らない家屋はあまりない大正の頃の話だ。
参道に進み石段を登ると、古木の八重桜や三ツ又の黄色の花が見事に咲いていた。二十二段の石段を登れば二の鳥居で、お手洗水には、年中湧水が満々と流れて溢れ、冷たい水は喉を潤してくれる。そこから六十八段登ると左右の狛犬が参詣者を迎えている。
村社・天照皇大神は千古の杉木立ちに囲まれ、すがすがしく、氏子崇敬者のやすらぎの場であり、心の拠り所である。昔の写真を探したが見当たらず、これは元の拝殿を元の位置に組み合わせた写真です。夏の暑い日など、役場の休憩時間にこの石段を何度登り降りしたことか。ほんとうに思い出深い場所です。
大正十一年、この拝殿が本殿に改築されて約二百五十七段。高い天神山の山頂に移転して行屋(道場)の建物を拝殿として遷宮鎮座し、戦時中の祈願等はここで行われた。
社会は日進月歩で、公園の必要性から天神山は大きく改造され、昔の面影はだんだん薄くなり、懐しい思い出が消えて行くような淋しさを感じる。ここで私の知る限りを書いてみたい。
薄れる昔の面影
昭和十七年、三度目の遷宮となり、今度は時代に並行して新築の計画が提案され翼賛、壮年団長・鈴木房之助氏が心血を傾注して崇敬者氏子の総力を集中し、郡下随一の社殿と付属建築物が整然と設備された。
以前の本殿は学問の神様天神様を遷座し、旧拝殿は参篭殿に改築された。神社の地形は郡内一の高台で、石段二百五十七段も郡内最高であり、境内の面積も、どこの村社よりも広大である。
昭和五十一年四月八日、春枯の火早い季節に不慮の火災に遭った。崇敬者、氏子の心を逆なでするような災害であった。昼火事で、山林等の類焼はまぬがれたが、村殿は全焼してしまった。氏子一同、再度の努力と協力で、不燃建築の設計、鉄筋コンクリートで昭和五十二年十一月十二日、現在の社殿が落成した。崇敬祖神天照御祖神社が遷宮した昔から数えて四度目となる。
思い返せば、大正・昭和は目まぐるしい年号だった様に思われる。神様、永遠に市民をお護り下さい。昔の来歴は「気仙神社総覧」をお読み下さい。