60年前の一大事件の思い出

越喜来に飛行機が墜落

小雨まじりの強い風の吹く、短い秋の日の夕方だった。突然、千葉脇三様(千葉薬店)のご来訪を受けた。急用である。越書来に飛行機が墜落したので、今から現場に行って写真を撮って来てくれるようにとの緊急の話で、朝日新聞本社からの依頼であった。

ペダルを踏んで現地へ

秋の落日は早い。三時は過ぎているので、どんなに急いでも越喜来泊の山林現場に着くのは夜になる計算だ。現在のように写真機材の進歩していない昭和四年十一月二十六日の航空機事故である。

マグネシウムを利用、写真撮影用に開発され、夜でも写真が撮れると宣伝した時代であるが、屋外で雨の降る様な天候では発光がむずかしい。場所が山の林の中とあってはピントを合わせる事も困難だ。要望の主は自動車を頼んでいけ、経費はなんぼかかってもよいのだから…と、せきたてられても山中の夜間撮影は初めてだ。とても自信などない。明朝、現場で夜明けを待つように行くからと言うことで相談し、やっと納得して戴き、翌早朝に暗闇を突いて、立根街道を自転車で越喜来峠に向かってペダルを踏んだ。

遺体は収容済み

峠の下の畳石の家に自転車を預り、旧道の細道を越え、小峠で右に下れば泊部落の沢道だ。昨日の嵐で雑木の葉が乱れ散り、ガサゴソと歩くたびに音がする。東の空が朝焼けして、昨日の嵐はどこへ行ってしまったか、静かな晴天だった。泊部落を右に、沢に登った山の南面の藪が墜落現場で、地元消防団員が救護と警護をしていた。遺体は前日に収容された後だった。

さて撮影の方だが、何しろ藪の中なので三脚の立て所がない。機体は雑草と若木に覆われ、見通しが悪い。左の松の木が小高いので、枝々をたよって登ったら、撮影距離もよし、視野も絶好だ。バンドを抜いて三脚を木に縛り、やっと撮影を終り帰路は今来た道を逆戻りだ。気持ちばかりが急ぐ。

午前中に仕上げて千葉薬店に届ける約束なのだ。帰り道は楽だった。峠の下から、デコボコ道をとばして帰って来た。

二、三日経って写真は新聞に掲載され、全国に報道された。噫(ああ)、田中実五郎少佐(当時中尉)は今年が六十回忌。陸軍航空隊所沢所属教官で、試験飛行中の事故と報道された。

察するに、八八式単葉偵察機(現在のセスナ機)で約五百キロの空を、遠く三陸の果てまで、燃料も欠乏したであろうし、強風にも吹きまくられて山腹に墜落したのであろう。職務訓練中の殉職で、二階級特進で少佐となる。

今年は記念すべき「60回忌」

地元軍人会と気仙教育会合同で三回忌を行う。昭和七年四月二十二日、越喜来町泊海岸の海を見晴らかす松林の中に田中実五郎少佐の碑が建立されている。思い返せば、今年は六十回忌に当たり、私も何か縁を感じ参詣した。山ゆかば草むす屍 - その通りで、六十年の長い間には時代も変り、一人の軍人の事故死は忘れられたか代替りして、知らぬ人が多いのか、ぼうぼうと雑草が繁り、誰も拝んだ様子もなかった。出来るだけ草を取り、しばし合掌して六十年前を思い浮かべ冥福を祈って碑を辞した。

ぜひ追悼式を

地元村社の宮司は親戚関係であり、訪ねてみたら在宅で、今日の話を切り出した。神職にあるのを幸いに田中実五郎少佐の六十回忌の慰霊と追悼の供養の式を挙行することを進言して帰った。追悼式にはぜひ参列したいと思う。