柿とイチジク

あちこちから柿の話が聞こえて来た。昨年は豊作だったが、今年は冷害をまともに受けて農家はがっかりしているようだ。暴力は追放できるが自然の猛威は手の打ちようがなく、春からの努力も、農作物の被害も甚大だ。農家の皆さんに慰めの言葉も出ない。

須川旅行の道中、車窓からの観察だと、沿岸と川筋の柿の結実はほとんど皆無に等しいが、陸前高田市の矢作町は平年作を保持したようだ。

大船渡市内でも盛川筋は三分作にも満たないようだ。昨年お伺いしてお世話になった小通の新沼一さんに電話して柿の作柄をお開きしたら、小通部落はまずまずの実なりとのことで、他人ごとながら安堵の思いだ。

淋しい柿の木

「春来る鬼」の映画の撮影が最終とのことで、三陸町観光協会の依頼で記念撮影に行く途中、赤崎と綾里間の道すがら眺めたが、沿道からみる限り、柿の木の淋しさが目についた。甚だしいのは、、皆無の木もあり、海岸地方だけ冷害が著しいようだ。日照と、ヤマセの関係が収穫の有無を左右するようで、今年のような異常気象では植樹する際などは地域の地形等も考えなければならない。

行っては見ないからわからないが、北東風の吹き込まない三陸町吉浜大野部落は平年作に近い収穫が得られるだろうと思う。釜石では柿市の報道も開いたが、釜石の甲子と矢作の地形は南面の土地で、ヤマセの被害を最小限にくいとめる共通の所のように思う。

専門家でもないのに、見た目そのままに書くので参考にもなるまいが、私の大事な一本の柿の木は今年豊作で、昨年よりも実なりがよいようだ。全部枝まで折り取って、努定を兼ね軒下に吊し、熟し柿にしてお正月から春まで楽しむことにする。

やっとイチジクの話になるが、私のちょっとしたアドバイスをー。

イチジクの巨木

我が家には二十年になる柿と並んで、イチジクの巨木がある。今年の冷害も知らぬ顔で豊作であった。毎年、十貫匁ぐらいはなる。家にある木は何の種類なのか、実はリンゴぐらいの大きさになる。味もよく、隣近所にも分けてあげて喜んでもらっている。

収穫時期は柿よりひと足早く、初秋から晩秋まで熟した分だけをもぎ取る。惜しいかな長期保存ができない。生食を好む人も多いが、私は砂糖(ザラメ)でジャムを作るように煮つめて食べる。アメ色になるまで時間をかけて気ながに弱火で煮つめるのだが、必ず最初から煮あがるまでは水を入れてはならない。

栽培の方法

次に栽培方法だが、樹型が横にとび出るので土地が無駄になり、下草が日陰になり農家には嫌われものの一つだが、植えつけてから直幹に仕立て二メートル以上で枝を張らせるが、南面の枝は木の下の日照を妨げるので早いうちに剪定すること。撃定をすると根元からも蘖(ひこばえ)がどんどん出るので、これもきること。生長の早いものなので苗木は挿し木で百発百中発根する。

種類をよく見分けて植えつけると、三年ぐらいで結実する。以前にイチジクを植えた場所には必ず植えてはいけない。以前の根を完全に掘り除かなければ新苗の生育が悪いのだ。乾燥地を適地として畑の角や傾はん、薮などの利用で植樹をお奨めしたい。

近年は市場に並べられ販売されるようにもなったようで、農家の方の雑収入の一つにと思うのです。柿と同様に充分に肥料をやれば毎年、多収穫が望めます。春になったら剪定枝を差しあげます。ご希望の方はどうぞおい出下さい。

松の木は残った

本紙読者の熱い声援受け

連続投稿すると見る人も〝アキ″が来るから、少し休んだらどうだべ…とは我が家の家族の弁だ。心配りは承知の上だが、特に老年の同輩からは思い出の記となつかしい写真や忘れかけていた事など、とても楽しくて、切り抜いて綴り思い出してはまた見ますから昔の話を書き続けてけらっせんとの声援もある。

言われて見れば頼まれた気になり、ボケないうちは書き続けたいと思う。そのように物事に熱中することが自分なりの生きがいとボケ予防の一策であると思っている。そんな訳で、古いはなしをまた始めさせて戴きます。

入学の時、紅白の大きなモチ

早生まれの七つ入り(入学)。大正元年は、私の学問の第一歩で、祖父に手を引かれて天神山下の尋常小学校に入学した。頭のあまり良くない私は四月一日当日のお天気も、先生方の名前も顔も記憶にはないが、紅白の大きなモチを二つもらったことだけは七十年経った今でも忘れられないうれしい入学式だった。

高等小学校四年が桜場にあって、気仙郡ただ一つの高等科で、郡内の各町村から学生たちが来て下宿し勉学に励んだが、盛六郷内からは通学だが、九十九曲り、七曲り近村では有名な綾里峠の峻厳な道を片道五時間もかけて通学した努力型学生もあったと言う。その頃は新渡戸仙岳先生が校長であったようだ。

郡内一の立派な教育施設

校舎は二階建てで、大正の初め、約五十メートル位うしろに移転して新校舎三教室増築した。それに尋常小学校が移転併設されて「盛尋常高等小学校」となり、小学六年、高等科三年となり、郡内一の立派な教育の中心施設となり、高等科には当時、近郷近在から通学して来たものだった。

小学校への引っ越しは入学の直後で、各自の机と椅子は二人一組での運搬だ。男女二人掛けの三尺の長机と椅子だが、級では一番のチビだった自分の相手は、ひ弱そうな可愛い子ちゃんだったが、机に椅子を重ね、天神山下から郡役所の通りを抜けて浄願寺の田んぼの一尺位の所を、落とさないように彼女を労りながら何時聞かかったことか、休み休み運んだ。その苦労は昨日の事のように鮮明に思い出がよみがえる。

校長先生は向井伝太郎先生だった。そのころ農学校が開校して、私達同級生は最後の高等科三年卒業生となった。話はまた元に戻るがー

世の移り変りで消えた文化財

大正天皇ご即位記念館気仙物産館は、小学校の移り変りと同時代に上木町に設立された。県下随一の展示品が階上階下に所狭しと陳列され、県下内外からも見学と修学者が引きもきらず、入れかわり立ちかわり来館したが、世の移り変りと共に一つの文化財が消えて行った。その面影がこの写真です。盛小学校の石門は第一中学校に移設され、知る人達には、なつかしい門なはずだ。

物産館は地方事務所、土木事務所、郡町村長会事務所と変転して、思い出は稲子沢から移植した名木・赤松が残ったのである。