大正期の天神山
町民の憩の場所『天神山』に樹齢数百年の山桜の巨木の根元に芭蕉の句碑が配置されてあった。その懐かしい『天神山』は、大正時代までは僅か100坪ぐらいの平らな所に芝草が生えていた。周囲は段々の荒畑だったが、老杉の聳える北側には松を配置して北西の風を遮切り、春ともなれば花見の宴席となる数々の思い出が偲ばれる。
やがて県下随一の大忠魂碑が建設された。当時、盛町の村社は、中殿の老杉の茂みにあったが、やがて真上の高台に移転された。戦後、現在の場所に3度目の遷宮となった。
神殿の改築には、壮年団も力添えして当たり、鈴木房之助氏が全力傾注し、盛町に面して東向きの社殿に建築するのと相談がまとまりそうだったが、神社は南面が多いと、社殿の地形上、前庭が広くなり、大勢の参詣の場として好都合だとの私の構想が認められ、忠魂碑移転と決定しているが、東海新報の〝文学碑散歩〟を読む度に心はせきたてられる。元の碑の文体を基調に、市内の書家に一筆おねがいして協力を求め、石材店に見積書も書いてもらった。あとは自然石の原石の選定だけ…。
私の提言
これは私のまったくの独走なのだが、よく考えてみれば、これは私のやるべき事なのか、誰かがやらなばならないのか、それとも全くやる必要がないのか迷うのです。私は地元盛町の皆様の協力が第一だと思うのだが、いかがでしょうか。
句碑の再建に構想なり、ご意見ご指導など、愚考えの批判でも結構です。ぜひお聞きしたいと思いますので、よろしく御教示下さるようお待ち申し上げます。