忘れられない不動様

六度目の参拝果す

3月26日、日曜日、快晴。長閑な春を満喫・・・三鉄・甫嶺駅を七時半頃下車した。

大船渡市歩こう会の一行30名が綾里野形のお不動様までの道程を強行だ。私は長道中はとても無理だ。9時24分の三鉄で行き、綾里駅からは親戚の娘の車を呼んで、お不動様まで送ってもらって一行を待つことにした。

昨年、例祭日から映画のロケーション等で行き、今回は六度目の参拝だ。そして、小林旭が残してくれたセットの移設とその景観を見たいのが本趣なのだ。

重要な観光地

神域の入口に豪壮な屋敷門、その左右の袖に塀まで巡らし、その前には高々と鳴子も建ててある。日曜とあって、家族づれなど参詣は多かった。

来る人は皆鳴子の綱を引いて、櫓の上の竹筒の音色を楽しみながら境内に進む。

重い扉の木戸を半分閉めて撮影して、神域に入る。その参道は、行くたび目を引くが、実によく整備され、参拝者の芥一つもないのは気持ちがよかった。三陸の文化財として重要な観光地であり、春来る鬼の試写会も東京と盛岡で日程が決まり、宮古で封切るとの報道だ。

小林旭もまた…

三陸綾里の不動様がクローズアップされて、日本国中に知られるであろう。小林旭の最初の第一回の作品映画。彼は一生涯忘れることのない思い出深い不動様に、必ずまた参拝に来る日があるだろう。

参拝者が三三五五参道を登って来る。私は、神域の撮影を5、6枚、シャッターを切り、門の前で歩こう会の着くのを待つことにした。

予想外の行程に健脚の連中も三時間以上かかるとは思わなかったらしい。婦人の方は、ちょっとパテ気味に見えたが、それでも回復は早い。門前で記念撮影をしてあげた。

映画撮影セットの保存、観光利用を協会に提言したのだが、門だけでも保存されたことを喜ぶのは私と小林旭だけではないだろう。今年の例祭日は一層賑やかだろう。

住田を尋ねて

春の彼岸も過ぎて、いよいよ老人の季節となり、森羅万象あらゆる生物が目覚め始める。小さな生命は、それなりに生長をはじめ、今から秋の実りを楽しみに精一杯のスタートだ。老人も遅れじと、動き出すことにした。

今日は朝から晴天で、風もさわやか。カメラを肩にバスに乗った。降りた所は住田町世田米の入口、大崎だ。村社は杉の古木の鎮守の林の中だ。見上げる石段の高いこと、目測五十メートルはあるようだ。中心は頂上まで手摺りが設置されて居たが、八十歳の身には急傾斜はきつかった。

何回も、立ち休み、登る。中段のおどり場に一番のお目あての探し求める狛犬が左右に下を見下ろして迎えてくれた。

カメラのピントは入念に合わせた。林の中で光線が弱いので、ストロボのスイッチを入れた。このあと再度、神殿目ざして登りつめた。参拝して帰路は裏参道を降りた。

狛犬尋ね五年

JRバス駅で上有住駅行に乗車した。八日町入口の橋のたもとで下車して、橋を渡れば右に杉木立の森が目につく大きな神明鳥居がある。村社である事はすぐわかった。しかし、世田米の天照皇大神宮と鳥居が違うので、不審に思った。皇大神宮の方は神明鳥居だ。やがて、表参道の石段を二十段ほど登って拝殿前に着いた。

人影はないが、無断で扉を開き、神前にて拝礼した。見上げれば金文字で立派な額に「五葉神社」と彫刻されていた。

内外を撮影して、第一の目標狛犬の姿を求めて境内中探したが、ここには狛犬は無かった。五葉神社は、大船渡市の日頃市町村社もなぜか狛犬が無いのだが、どうして五葉神社には狛犬が無いのか不思議だ。

狛犬を尋ねて五年目になる。三陸と大船渡と住田と神社を順々に巡って、残るは陸前高田市内五ケ所だけで、念願の気仙郡内の村社と狛犬が撮り終えるのだが、狛犬は即ち石の彫刻に魅せられてのこと。住田を終わり、帰途についた。

再度高瀬へ

そこで昨年秋に撮影に失敗した下有住高瀬の千本桂の名木を、再度、葉の茂る前に撮影することを思い出した。

バスの時間を割り出して見ると、帰宅まで3回乗り次ぎしなければならない。思案にくれて八日町を彷捏していると私の自宅近くの酒販会社の小型トラックが停車しているのが目についた。

〝渡りに舟″と恥も外聞も忘れ、高瀬までの乗車をお願いした。

運転者は一人で、卸配達の帰りだと言う。世の中には親切な人も大勢いるものだ。ご好意に甘えて高瀬に急いだ。五分間ぐらいの道のりだが、車は速い。気仙川筋を南下して、やがて車は私の目ざす桂の巨木の根元で停車した。

驚いた事に車内で自分の今日の目的を話したのだが、「どうせ帰るだけだから心配無用。ゆっくり必要な写真を撮りなさい。待っていてお宅まで送って上げるから」という。其の親切な心と老人に対する思いやり、なんとも感謝の気持ちで快くカメラのシャッターを切ることができた。

待っていただいた車に乗って改めて考えてみた。会社の勤務と車の責任とを心得ての親切、心深く温めて一生忘れる事がないだろう。

改めて多謝

3、4日後酒販会社の所長さんが証明写真の撮影に来店して下さった。はじめての面会だったが、車の親切のことを話すと「あなたの記事は楽しく読んでいる。自発的に思いついたことの記事の写真撮影の時は、会社の車を利用して下さい」とのこと。私の趣意を御理解下さってお許し下さった。御好意有難うございます。

その折り、氏名も開かずに申し訳ありませんでした。所長さんからお聞き致し、また甚だ失礼ですが、遅ればせながら佐藤光男さんに心からお礼申し上げます。紙面を拝借致し恐縮に存じます。

なお、高瀬の桂は、玉桂と地元では呼んでいる。樹元には一間四方の祠(ほこら)があって、竜神が祀られ、下有住住民の信仰の祭神であるようだ。

樹形を観察するには、葉の茂る前でなければ幹や枝が多くて困難だ。今は木型がりっばだ。

二戸郡浄法寺の天台寺は、瀬戸内寂聴住職。作家でも有名な方だが、信仰の源泉は桂清水であると言う。それにも増して、高瀬の玉桂は樹幹の太さ、高さ、樹体形は実に素晴らしい。名木である。

住田町に提言したいが天然記念木として保存指定はどうかと思う。甚だ失礼な進言ですが、思いつくまま……。

三陸町の文化財を見学して

大屋と別荘両宅へ参上

気仙大工の精緻を極めた技術に圧倒さる

最初から連絡なしに突然参上して家宝であるお堂と仏間を拝観は失礼とは思ったが、気の向くままに三鉄に乗った。綾里、砂子浜の大屋様(大船わたるの生家)を訪問した。かねがね、一度は拝観したいと思っていたし、友人にも奨められてもいた。

お伺いすると、ご主人不在で、奥様が親切に快くご案内下され、お堂の扉を開いて、正面から拝礼して内外をスナップ写真に撮らせてもらった。

その彫刻の巧妙華麗さと須弥壇表面の阿弥陀如来像の神々しさと左右の襖の仏画等、何百年の歳月、地元信仰のやすらぎの場であったろう。よく整理整頓が行き届き、りっばな堂内で、よく見せてもらった。

いまひとつ、仏像と建築物で知られる通称「花輪の別荘」へ向かった。ご当主・熊谷裕一様宅にはこれが二度目の訪問。電話で、あらかじめ承諾は得ていたので、お蔭で40数年ぶりの拝観だ。同家は50メートルほどの高台で、港の出船入船は目の下。岩崎野形方面まで一望出来る場所。景観は綾里一だろう。

巨匠・花輪翁

話はその別荘建築までの巨匠・花輪翁の忍耐と努力の苦労の一端を申し上げなければならぬ。立根町安養寺建立の頃は、時折りお逢いして、種々の一代記を話して聴かせて頂いたものだ。

高田町立小学校請負建築は32歳の花輪菊蔵が本名だった大正初期と記憶しているが、高田小学校新築落成式を近日に迎えるばかりの矢先、火災で全焼したのだった。

彼は最後まで不審火と思い続けて話していた。当時、請負入札に地元大工が負けて、他所者の綾里村の菊蔵が落札したのだが、内心地元大工組合職人は憤満やるかたなかった事は推察出来る。

受け渡しが済まないうちの大災害に、棟梁・菊蔵は悩み苦しんだに違いない。心中や思いやられる。職人の賃金諸支払いも出来ず、苦慮の末、一大決心で、家も家族も捨て、新天地を目ざして北海道に逃亡した。菊蔵の運命の大転換の発祥の地は札幌で、借り手のない一軒家に単身住んだ。

改名して名あげる

殺人事件があって幽霊屋敷と言われていた家で、家賃いらずの家だった。何年住まいしたか聞き忘れたが、あまりの淋しさに眠られぬ夜が何夜も続いたと言う。

毎日が他人の仕事現場の下働き。やがて芽が吹き、宮大工を目標に努力し、花の咲かない菊蔵を改名、喜久蔵で名を挙げた。神社仏閣専門に、遠く樺太までも建築の要請があり、東北から北海道全域まで宮大工、花輪巨匠の名は有名になった。

喜久蔵の遺産は、神社仏閣を百ケ寺建築した記念としての「花輪の別荘」で、其の名は三陸では知らぬ者がないくらいだ。

建物は華麗ではないが、百ケ寺の寺社の残材余材の結集で、何億円の費用をかけても集材の出来ないもの。ほとんどが北海道産の貴重な建築材である。

その頃、100トン以上の船は綾里の港に接岸出来なかったので、小船で港外で荷役して、海岸から人夫が1本1枚、材料を担ぎ上げたという。

専門の知識がないので説明不足だが、3尺廊下の1枚板は印象に残る。歴史が浅いが、室内工作建具等は精緻を極め、民家としては気仙大工の最高の技能を傾注したものと思う。

奥の座敷が仏間。やはり正面は阿弥陀如来像が安置され、規模は壮大ではないが、荘厳華麗な技工。色彩の美しさは実に見事なものだ。須弥壇左右の仏画も立派だ。なかでも6尺屏風が見事だ。6枚続きが1曲、2枚屏風3曲がたてに巡らし、これは年代物と拝見した。仏教語もわからないが、皆それぞれの御仏様の絵が一仏ごとに書いてあった。

花輪翁の一生一代の遺作の結集品ばかりで、三陸町の一つの文化財である。仏間も大谷石の蔵に保存の計画があったようだが、地震で蔵が破損して奥座敷に安置されている。

巨匠花輪翁も安養寺建立が最終の仕事で、昭和17年10月2日逝去された。その足跡は建築史上に残るものとなっている。

憩いの場建設を

時代の進歩は、実に目覚しい。特に、青少年の体力増進は驚くばかり。各学校ごとにグラウンドが整備され、室内競技場があり、プールのない学校もほとんどない。

そのほか、スポーツの場は、市営野球場、バレーボール場、ゲートボール場、また冬のスポーツの不能をカバーしてローラースケート場もある。健康な若者の体力増強には事欠かない時代となった。ありがたいことだ。

ところが、完備した設備を利用できないでいる人が大勢市内にいることも忘れてならない。スポーツ不敵な人もあれば、嫌いな人もある。年老いてくれば万能スポーツマンだった人も利用できなくなってくると思う。真に求めてくるものは何だろうか。

私は、一億円をかけて身近な丘や原生林を、スポーツを卒業された人たちの憩いの場にしてもらいたい。年中森林浴が出来たり、秋には紅葉を楽しんだりですばらしいと思う。やすらぎの平成の森の造成を設計して、再度、投稿したい。どうぞよろしく。