野形(綾里)の不動様

野形の不動様

年一度の例祭ときいて、十何年ぶりで綾里のお不動様を参拝した。昭和初年には九十九曲りの綾里峠の険しい道を、ある時は不動神社に降り、帰りには滝を眺め登りは道中の安全を祈って参詣し、霊気漂うあの渓流と苔むした岩肌に真夏の暑さもいっペんに消散し、何んとも言い知れぬやすらぎを満喫して峠の急坂を週一回の日程で往復した時もあった。

芭蕉の句に
○しずけさや岩にしみいる蝉の声

今まで何度も訪れてはいるが、年一度の例祭にお詣りしたのは今年初めてなのだ。
昔と変りないあの景観と心にしみる滝の音、秋は紅葉と参道には、一面に散乱する〝トチの実〟が印象深くなつかしい。

チャンス到来

小林旭が映画のロケに来ていると言う。

この絶好の機会に愚考を申し上げます。今年は二度お不動様に参詣して、あの名所を撮影するのが一つの目的で、広く宣伝したいのが私の念願なのです。

お祭りの時より二度目に行った時には、参道も清掃整備されて足場も大分良くなってはいたが、気のつくまま申し上げますと、

流れの小さな川ですが、景観上、赤い吊り橋に手摺り(六尺もあれば見映えがする)でもつけて、そこから天然の石段をつける(コンクリートや切り石ではなく、野形などの川に多い自然石を選ぶこと)。

それから神社の説明文は駐車場入り口前に建て替えること。説明も必要かと思うが、設置場所によっては、かえって周りの景観を悪くする。

次にトイレもぜひ必要なのだが、これも休憩所と共に、参道外に置くことと、電気を配線することも早急にやってほしい。また地元民と話し合って、今撮影中の映画に、「野形太鼓」の協演等も交渉してみてはどうですか。千載一遇の好機会、見逃す手はないだろう。地元民の熱意と協力があれば経費などは大したことがないと思う。以上は、さし当たり急を要する事業だと思われるが…。

新トンネルを

次に、リゾートエリアヘの提案だが、名所と距離と交通が重大な問題となる。どんな絶景の地でも距離が遠いと敬遠される。交通が不便な所には誰も行きたがらない。綾里~大船渡間の合足トンネルの開通も間近だが、それでも赤崎町~小路の間は、かなり遠回りだ。

距離を短縮するには、野形から永浜にトンネルを掘削すると、合足回りにくらべ半分の距離になり、赤崎町の県道の交通難も大分緩和され、不動神社もかなり近くなる。

また、三鉄を利用しても、気仙管内の学童等の遠足コースには絶好の場所です。社殿の改築とか不動温泉の開設等は将来課題として-あの沢の観光開発には綾里ダム建設と平衡して道路の拡張と舗装が急務と思われる。

思うことが思うように行かないのが世の一般と心得てはいるが、最初から大きな構想では採算が行き詰まるだろうが、小さな文化遺跡等を掘りおこして、リゾートエリアの参考にでもなれば幸いと思います。

年老いたせいか、世間の事物が目につきやすく気になり、ファインダーに飛び込む物は何んでも撮影するのが私の生きがいでもあり、また、語り放題が私の悪い癖で、手当たり次第に写すことと、物を書くことが楽しみな昨今です。ツメのアカ程の参考にでもなればと思い、失礼ながら申し上げます。あしからず…。

提 案

映画『春来る鬼』 のロケ本決まり-。去る七月二十七日付の新聞報道か見て、自分の事のようにうれしくなって、愚案を申させて戴きます。

綾里の野形不動神社周辺を中心に、ロケーションのため地域整備と撮影用セットの建築と、ヒエ畑の植え付けなど、かなり大がかりな作業となろうが、ロケ終了は十
一月との事ですが、その建築物等はすべてそのまま解体せずに、保存払い下げが出来ないものだろうか。

それから前文にも書きましたが、案内板は境内の入り口に移転すること、神橋を神社の直前の流水に奉納して景観を引きたてたいと思います。化粧橋は鉄製にして約一間と幅二尺位あります。運搬設置をお引き受け下されば、私のやすらぎの場所に、八十三歳の長寿の感謝を祈念して奉納申し上げたいと思います。

 

楽しかった敬老会

台風18号が小笠原諸島から北上して関東地方に接近との予報。夏以来雨降りの連続。今日も朝からそぼ降る中を地区公民館主催の年1度の「敬老会」に出席した。

70歳を過ぎてから毎年、親切に案内状を戴きながら欠席を続けて来たが、今年こそは出席してお世話になろうと昨日までもその気で小たが、当日になり、またもや行ぐべが、なぞすべと、いつもの引っこみ思案が始まった。

近所の老友とも話して行くことを約束したのは夕べのこと。どういう訳か、思い返してみたら、耳が遠いのが気遅れの原因のようだ。他の人と親しく話しかだりしても、二言目には、なんだったべ…となる。とても失礼で、もっけになるので、わがったふりして返事をすれば、まるで言うことが〝チンプンカンプン″だ。外国人にでも会った時のようにさっぱり訳がわがんねァ。

家族の者であれば、愚妻等が注釈するのであんまり不自由はない。補聴器を使用しているが、非常によく聞こえる声と、全く聞きとれない声とがある。どうしたことか女の人の声はわかりやすいようだ。そんなことだから耳が遠いと友情までもが疎遠となってしまう。人の集まる所、講演などに行っても馬耳東風なのだ。

老人クラブゲートボールも、歩け歩け運動もジョギングも、何ひとつとして老人の集まりには無縁居士だ。淋しぐなかんべが…と言われるが、それがどうしてどうして、多趣味であるから毎日が忙しいのだ。老後はできるだけ他人に迷惑などかけず、心の向くまま気の向くままに今まで出来なかったことをやりながら過ごしたいと思っている。

そんな風なので、腰が重い所に妻の声。昨日まで、行ぐ行ぐつて喜んでいたのに、今日になってなんとやめっどごだべがや、10時半になってば。友達ァどもあぎれでだべ…と言われ、重い腰をようやく上げ出かけることにした。

敬老会場に着いた頃は雨も小降りになっていた。同輩たちも遅ればせながら、ちらほら見える。奉仕の婦人会員のご案内で宴席についたが、すでに満席だった。部落別に着席するのだが、遅れたために他部落の席についた。

関係当事者たちの挨拶はみな〝長寿おめでとう〟 であった。テーブルには心づくしの山海のごちそうと、老人向けの唄踊りで大変にぎやかだ。どの顔も、シワだらけの顔がほころびて楽しくうれしそうである。

見えないのは自分の顔だけだった。

とって返ってカメラを持って会場に戻り、部落の面々の写真を撮り、久しぶりに会った友人、なつかしの老友をひと通りスナップにおさめることができた。

主催者並びに奉仕のご婦人方のご好意を無にせず、初めて出席した感謝の意を申し述べたく投稿致しました。盛町敬老会ありがとうございました。

豊年だ万作だ

全国隅々まで唄のない町村はないだろう。歌、唄、謡、里謡、民謡、小唄、地唄、歌謡曲と数々の曲が古来唱い続け伝えられている。心の古里の子守唄等数々ある。

なごむ心、やすらぎの曲を聞きながら育てられた私は唄が大好きだ。中でも民謡が好きでよく愛唱したが、長い年月を生き抜いた私の声も塩から声だ。それで今はあまり唱う機会もなくなったが、なつかしさの余り時々、民謡の里を訪ねてみる。文化財が消えゆくと共に薄れゆく唄も数々ある。

幼児の頃から耳にした唄に〝豊年だ万作だ”の里唄がある。酒の集まりや、お祭り
の囃子に、気仙地方では知らない人がない程の郷里の唄であるが、さてその歌を満足に唱える人のないのには驚いてしまう。曲はみなわかっているのだが、歌詩がわからないのだ。たまげたもんだ。

それを囃して踊った昔の人々をたずねて歩いてみたが、出だしばかりは調子よいが、あとが続かない。1番の詞と2番の詞の混ぜこぜもあり、この間の「敬老会」の時にも唄好きの老人仲間なら解る者もあるだろうと、聞いて回ったが、知る人もなしで、まさに秋の風のような淋しい限りだ。

甚だしいのは、〝かっぽれ”の文句まで混ぜている人もあった。私の覚えのある所だけ書いてみるが、里謡、民謡を消さないためにも、誰か手助けして下さい。

一、豊年だ万作だ 稲穂も揃って出たわいな アトワカラナイ
二、おもしろやうれしやな 正月二日の初夢に おまえ百までわしゃ九十九まで共に白髪の生えるまで 高砂子夫婦の仲人で おまえさんと添うとこ夢にみた

故・金野菊三郎先生を偲んで

金菊先生との出会いは割り合いに古くて思い出も多く、最初は赤崎中学校の落成式の折り色々の展示会が盛大に開催された。友達と子供等を連れて見物に行った時だった。各教室の学童、その他の作品を見てまわり、たしか応接室をのぞいて驚いた。市内では見た事のない立派な盆栽が三鉢あった。松と、杜松の銘木だ。前後にまわって見ていたら、金野校長先生が入ってこられて、「佐藤君、大したもんだべ」と話しかけられた。「立派でがす。遠くから海を渡って来たもんだもの」。そしたら先生、「どごで、そんごど、わがんべ」と言うので、私の知人で船主であり船頭である石巻の人で、永沼さん、その人は残念な事に自分に子供が無いので、趣味は盆栽で何百鉢も盆栽持ってる事を説明した。船が大船渡に入港すると時折り、立ち寄ってしばしその話を交わしたものです。その永沼さんの鉢だったのです。金野先生が「此の際、一鉢貰ってやんべど思う」と言うので、私の浅い経験で、「やめらっせん先生、とてもだめなもんだでば、宝の持ち腐れで……。たとい、貰ったって、銘木ともなれば、私等のような、山出し植木でさえも満足に成育出来ない者がとても、この立派な盆栽の管理はむりだど思うがら、経験豊かな先生であれば別だが……。先生の言うには「水さえ切らさねば、大丈夫だべもの」。私もまげずに、「人間だって、おままさえ食わせでおげば、立派な人間になると同じごどだでば……」などと盆栽の前で大笑いしたのが初めての出会いだった。

私の職業については始終お世話になって公私共にお引立て下さった事は忘れられない。現在、商売は子供等にまかせて先生との事は、思い出し、あじだし話している。先生の盛中学校在職中の頃、私の長男が二年生だったと思うが……。
突然、中学校から電話があって、その日午後一時から会合があるから来て下さいというので、はいと言って電話を切ったが、あまり急ぎの集りで、なんの事か判別がつかない。多分、父兄の集まりだろうと思って出席した。ところが驚いた事に集合場所は、教室でない、講堂でもない、女の先生に案内された室は校長室で、職員の先生一同、椅子に着いて待ち受けていた。見渡せば、父兄会にあらず、呼ばれたのは私等親子だけだった。
開口一番、校長先生から正面に居られる見知らぬお客様二人の紹介で、こちらは仙台電波管理局のお方で、桜場放送局の事で、わざわざ仙台から来られたとの説明に私はびっくりした。当時、ラジオは多少の知識があったが、無線電波の事はまるっきり解らない。が、長男が近所の友達と有線で話し合っていたのは知っていたが、夏休みに入ると今度はアンテナを二階の窓から張って、「こちらは桜場放送です。ただ今電波発信中。どうだ聞こえるか」と互いに送信、受信をくりかえし楽しんでいた。まさか遠くまで届く程の出力はないだろうと思って放任していたが、思いかえせば夏休みのある日、猪川中井の放送局長が来られて「桜場放送局はこちらでしょうか」と訪ねてきた。そして、器具は警察に押収されて持っていかれ、長男を面接させて電波管理の話しを説明されてお帰りになったが、まさか、仙台電波管理局から来られるとは思わなかった。中学校の先生方には電波のお話をしたり、家の子供には電波の専門学校へ入学を勧める話などして、無事会合が終わったが、一時はどうなる事かと先生方にも、とんだご迷惑をおかけしたのは申し訳けないと今でも思っている。

金野先生は私の家に来られる度に、「桜場放送局長居だが」と声をかけて下さった。 話しが変わって、教職を退職されて、大災害のチリ津波後の津波災害の記録の編集には、殊更熱心に資料収集に足をはこばれた。私の手持ち資料は明治、昭和、チリ津波の災害現場はほとんどと、明治の資料等も知人を尋ね複写し、記念碑等も先生と共に史料を調べ、撮影したものだった。そのほか、先生の遺作品は永久に世の人々に語り継がれる事でしょう。
先生は人に好感をもたれ、老若男女別なく私等としては先輩であり、指導者でありました。でも、人のお誘いには必ず賛成して、心よく事柄を運営して下さった。大船渡菊花会も発会当時は四、五十名の会員を集めたが、金菊先生もその一員として実に熱心に協力して下さった。
乾燥肥料の製造には、会員全員に配給するために悪臭の魚粕を臼で粉砕したり、米ぬかと油等を混合して肥料造りなど、なんでもご協力して下さった。菊花展も先に立って会場の整備をして下さり、大盛会だったが、お互い様に病魔に取りつかれ、菊造りは出来なくなったが、その時の顔ぶれは何人も残っていないが、菊花会は引き続き毎年、市主催の展示会に立派な作品が人目を引いている。
先生はまた、山に誘えば山に行き、海に誘えば海に行く。私がお誘いしてお断りされた事が一度もなかった。板用の高稲荷山に登って奥様の大好物だとシドケをひと抱え取って、姫小松の苗を掘って来た事など、思い出はつきない。越喜来峠にツツジ観に行った事、馬場淵川で、鮎のがらがけの話など、あのころは最高に楽しかった。先生と一緒の時はなおさらユーモアたっぷりで、先生とは二つ違いで、八十の峠を越えたれば、今日は今日までで五十歩百歩の差です。

ご冥福をお祈り申し上げます。