ある夏の夜の思い出
カフェーが雨後のタケノコのように開店が盛んで、町には、すみれ、やよい、白菊、いろは、街のクラブ、と華やかなりし頃、女給たちは夜の花とか言われ、和服に白い短いエプロン、背にはタスキを大きな蝶に結び、まるでザクロがはぜたように口紅を真っ赤に塗り、手回しの蓄音機が1台置いてあって、擦りへったレコードが自称〝遊治郎″どもを誘うのだった。
電気蓄音機でスピーカーを鳴らしたのが、町では私が最初で、お祭屋台に取りつけ、踊りに音楽を流したのは桜場組が初めてだった。電源は当時、電気を配線している家は何軒もなかった。調べてみて、ソケットを差し込み電線を二通り準備して配線し、電気を送つてもらった。商店の皆様には快く御協力して戴き、あれから50年経った今でも感謝している。
題目の〝思い出の発見″を忘れた訳ではない。その当時の情景を言わなければ話がぴったりしないので、前書きが長ったらしくなるが、もう少し。その頃の流行のことば、飲食店や、カフェーに飲みに行くことを〝発展″したと言った。夜通し飲むと朝露を踏む…と言った。この朝露には私が重要な責任を負わねばならなかった。
東京で不運にも修業半ばに脚気にかかって、やむなく帰郷した。病気で帰って来たのに同級生の親しい連中から、同級会だからと招待を受けた。むくんだ足を引きずりながら、脚気のことは忘れ、酒を飲み続けた。夏の夜は夜明けが早い。たちまち夜が明けてしまった。心配して寝つかれない両親には面目ない。酔いを覚まさねば帰られない。
いろはを出て-
そこで考えた。昔から脚気の療法は早朝、草っ原に出て朝露を踏むのがもっとも効果があると言われた。ほろ酔い気げんで川原に行った。草履をぬいで裸足になった。なる程、気分が良い。川風受けて涼しくなり酔いも覚めたので裸足のまま家に入った。
見ての通り朝露を踏んで来たのである。以来、しばらくの間、悪友どもに、〝飲んで朝帰り、朝露踏むと…″とひやかされた。
さて、夏の夜の事件だが、ある晩、カフェー・いろはに行った。常連2、3人の先客がいた。女給相手にビールを3本あけた。夜が更けて12時頃となり、カフェーを出た。ハシゴはめったにしない方だ。友達でもいれば別だが。ほてった顔に夜風がさわやかだった。街は寝しずまり静かな夜だった。自分の家まであと5、60メートルの所に来た時である。見たところ佐々木医院の中央付近から垂直に50メートル位上空に火の柱があがっている。風がないので火の粉が真下にパラパラ落ちている。
ただ一度の火災発見
盛消防組三等消防を命ぜられ、三分団員新米ほやほやの自分が後にも先にもただ一度の火災発見だ。火の手を確かめ、桜場方向に火事だ火事だと三度程、声をかぎりに叫びながら、勝手知ったる駅前の三分団の屯所に駆けつけた。単衣の着物は上半身裸になり、財布とたばこは両挟で結び、屯所の扉を開け腕用ポンプを引き出した。
舵棒は左右二人で引くのだが自分一人だ。履物はフェルトの草履で足がすべる。
現在のように舗装道路ではない。石ころのデコボコ迫だ。汗は滝のように流れる。応接はまだ見えない。やっと「今喜」の前まで来た時、一番先に来てくれたのが忘れもしない 〝カフェー・街のクラブ”の山田秋声さんだった。ところが、引いてくれればいいのにポンプを後ろから押された。疲れ果てているのに押されたものだから、前にツンノメリそうになった。
ようやく現場近くまで行くとあたり近所の人達が皆応援に出て来た。バケツを持ってかけつける人もある。火災現場は佐々木医院と見たら、三軒隣りの石長屋の裏だった。その家の前にようやくポンプをおろした。今度は水がない。何人かが、寓兵衛様前から引いてくれた。あわてたつもりもないが吸管と放水管の位置が反対だ。半回転してどうやら吸管は取りつけたが、何んたる手落ちであろう。放水管が一本も準備していないのだ。、 再度、屯所にかけ戻り運搬車を引き出し、やっと放水ができた。幸いにも、その時刻は無風状態で物置き小屋一つで消しとめることができた。夏の夜は白んできた。俺は疲れ果てて、ぶっ倒れた。今度は誰一人、自分を見てくれる者もいなかった。
消防団幹部は、なんだそのざま、消防団員でありながら団の服装も着けず、帽子もかぶらず、消防の資格がないと、罵声と悪口だ。疲労のため寝たふりをして聞いていた。とんだ物を発見したもんだ。俺が服装を着けに行くひまがあったか。服装をとりに行っていたら火事は延焼していたであろう。火事が鎮火すれば、それでいいのでは…と分団長に食ってかかった。被害を最小限に食いとめたあげくに悪口雑言だ。これが大家の御曹司か、知名人の子息ならば大さわぎして、上申の手続きをし、表彰か功績章は戴けるだろうにと、貧乏人の〝遊治郎″はひがむのであった。
変な疑惑を呼ぶ
その後がまた大変なことになった。火災発見が早過ぎたのと消火の準備があまりにも万全な動作だったのが疑惑の原因となったようだ。当時の刑事は毎日毎日我が家を訪れ、くどくどと同じことを繰り返し質問するのだった。あきれたもんだ、なんの表彰どころか、不審火のため、原因も犯人もわからない。第一発見者の俺が、まるで犯人扱いだ。
一週間も通われては仕事にならない。考えて見れば馬鹿らしい話だ。その後五十年間、幸いつまらぬ発見はない。
今は、犬・猫を車で轢いて病院に運んでも美談と報道される世の中、これが有り難い世の中なのだろうか。
終わりに一言。まだまだ沢山の話が続くのだが、皆さんも身近な出来事、昔話等を話し合って後世に伝えようではありませんか。楽しい話、嬉しい話を残して下さった先輩、友人は皆故人となられた。感謝と御冥福をお祈り申し上げます。