稲子沢家の総門

蓑虫山人稲子沢の絵を見て、七十五年前の自分の記憶が走馬灯のように思い出される。

稲子沢には大観音様と現存する御神童があって、巡拝して御神童で祈祷やら子供の健康成長を願って、体の弱い子は神様の虜子にあげると言う。神官様がおられて御祈祷を受け、神様のお授けになった名前がつけられている。強い子供になるように熊太郎とか、長生きするように亀太郎とか、女の子なら鶴江などである。長命で八十五歳になる叔母の本名はトメノだが、神様の虜子名で今もツルエと呼ばれている。

岩谷堂に売られて行った観音様は、実に立派な黄金燦然後光がさして、見事であったと覚えている。馬車で運搬されたのだが、御像は2メートル以上もあって、白石随道は抜けられず、迂回して高田町を通過して、盛街道を世田米を通り、姥石峠を種山越えて、稲子沢の宝物・盛地方の重要文化財が、遥かに江刺に移って行った。当時のお金で五百円は大金であったろうが、地元で買い求める資力はなかったのか、残念至極である。

それにしても文化財の保護は重要な問題である。古い物件を大事にして、無い物は復元し、ある物は保存し、後世に譲り渡し永遠に伝える事が我々の務めであろう。

稲子沢橋が大渡橋、権現堂が吉野町となり、昔の面影が消えていく淋しさを感じるのは、私だけだろうか。

創業以来六十三年、神社・仏閣・史跡・名所・旧跡・催事・祭りと、ファインダーに入るすべてを、手当たり次第撮影し続けている。それがこの商売を身につけた自分の任務と心得て続けている。

水野仁三郎さんから稲子沢総門の扉が保存されている事を初めて知った。主体の門は総欅作りで、水野さんの御親戚であられる富沢の西光寺さんの山門として立派に管理されている。この山門は明治末期に移築された。

紅葉と柿

さわやかな秋晴れが連日続き山は赤く色づき、家の中に落ち着いてなど居られない気分になる。春夏秋…この季節になると山歩きにお誘い下さる方から、今年は何の音沙汰もない。それもそのはず、市の芸術祭が開催中で、その方も作品の出品やら門下生のお世話、それに踊りのお手伝い、また絵画も嗜み、とても多忙な方なのでこの秋は山歩きの暇などないであろうと、老妻となかば諦め話をしていた。

静月さんの誘い

その人は女流書家の津田静月さん。静月さんは、山と花が特に好きで忙しい中にも閑をみつけては季節が変わるごとに山にお誘い下さる。私の老妻も門下生の一人で、御指導を受けている。そんな所へ、噂をすればなんとやらで、その夜、静月さんから山への誘いの電話があった。明日、仙人峠の紅葉を見に行かないかとのこと。待ちに待っていた行楽だもの、二つ返事で話がまとまった。

10月28日、昨日に続くよい天気で、風もなく錦雲が静かに青空を南に流れる。予定時間の9時に迎えの車が着き、いつもの四人の顔が揃った。私は山に行くにも海に行くにも〝カメラ″と〝ゴム長靴″は忘れたことがない。水の中や薮の中に立ち入る時の準備である。車の中で行楽コースの打ち合わせをし、まず赤坂越えで、五葉山麓へと決めた。

〝第二の目的″

私には別に、第二の〝豊作の柿″ の観察の目的もあった。車窓から見る柿は近年には珍しいほどの豊作で、他人事でも心がはずむようだった。里の方は、まだ樹々の緑が濃いが、鷹生川上流の方は美しく色づき、ほんとうに見頃だった。牧野を登れば赤坂峠で、そこを右に折れ間もなく三陸町の大窪山牧場に出る。木は伐り払われ、谷間だけの紅葉を眺め、曲りくねった坂を下り、大野部落にたどり着く。飼主にひかれ、牧場から牛舎に帰る黒牛を追い越しながらあたりを見ると、見事に実をつけた地元名産”柿”の並木が目につく。車を止めてもらい思わずカメラのシャッターを押した。二十本ぐらいと見たが、落葉したらまだまだ壮観であろうと思った。

私は、実はこの柿が見たかったのだ。地形が南向きで日当たりも良く、背後は山で台風もあまり強く当たらないのだろう。この大野には、たくさんの柿の木がある。次に45号線を一路釜石市街を通り、甲子川上流に向けて車は急ぐ。車の窓からは甲子柿が目につく。中妻あたりから小川、洞泉、大畑、大町あたりまで続く。三陸、大船渡の柿とは別種類のようで、柿の実も小さめで色合いもちょっと違うようだ。

見事な実成り

まだ十月なのに、もう葉がほとんど落ちていた。ただ本数の多さと、見事な実成りぶりにおどろく。ここも地形が川に沿い西東向き、背に山をめぐらし、日当たりがよさそう。川風が吹き抜けそうだが、暴風雨にはさらされないようだ。

早い所では、もう皮をむいて吊るしている家もあった。次に目ざすは仙人峠。もう正午は過ぎた。名所の赤い陸橋も日陰となっている。仙人峠はもう晩秋の仔いだ。紅葉は真っ盛りでも日がかげっては絵にも写真にもならない。沢風が吹き寒くなってきたので釜石の街に下り一服すると、もう三時だ。私の希望で帰途は上有住に越える箱根峠を回ることにした。再度甲子川を逆戻りで、大町あたりで川を左に渡る。

今から三十年ほど前に土木事務所の工事の関係で、有住側から頂上あたりまで登ったことがあったが、その頃はまだ草木がぼうぼう茂って石ころだらけの山道であった。トラックでやっと登ったことを思い出した。その後、山頂付近にはテレビ塔も建てられたようだが、道路状況はどうなったのかは知る由もない。釜石側からは初めて登るので少し不安もあった。

まさに絶景

だが登ってみて驚いた。道路は立派に舗装され、カーブは多いが実に眺めのいい楽しめるコースだ。前方には愛染山が形よく聳え、遠く裏五葉峰が鍋倉峠に走り、伊達と南部の境界線が紅葉に染まり、トンネル・渓谷は深く〝絶景″とはまさにこの事か。

今日一日のコースで最高の風景を眺めることができたが、残念ながら日が暮れて写真にはならない。上有住大洞に降りた時は真っ赤な夕焼け空だった。天気予報は明日も晴れだと言う。静月さんは明日の午前中に、箱根峠にもう一度来て、心ゆくまで紅葉を楽しみたいし、カメラにも収めたいと言う。一同賛成となり、またまた行楽の延長戦となる。夕暮れせまる六郎峠を越えれば陸前石橋で、明日はまた逆コースで箱根に来る。車で急げば三、四十分ぐらいか。釜石行きなら楽しい近道のような気がする。みんなが、それぞれに趣味が共通するので話しのまとまりが早い。

柿について

二日目は陸前石橋から六郎峠を越え箱根峠へと直行した。連日晴天に恵まれ、今日も秋晴れの快晴だ。風景は変りなくとも曇りと晴れとでは雲泥の差だ。今日もほんとうにカメラ日和で午前中に登り口で思う存分撮影した。今日はビデオカメラも携帯した。後日、「箱根峠の紅葉」というタイトルで、テレビ岩手で紹介された。二日連続の車の運転、静月さんには内心申し訳なく思いました。あまりの楽しさゆえに、豊年の柿の話が遅れてしまったが、これから本旨の柿についての見たこと、聞いた話などを述べてみたい。専門家ではないので間違いや思い違いもあることと思いますので割り引きしてお読み下さるよう前もってお断り致します。

里古りて柿の木持たぬ家もなし  芭蕉

大ざっばであるが大船渡市、三陸町、釜石市と柿の木を見て回った。私の見たところでは、日頃市町の小通部落では、よく柿の木を育成しているように思われた。幸いに柿の皮むきから吊るすまでの工程をビデオに収めることが出来た。(後日、テレビ岩手で放映された)大屋の新沼さんのお宅でのこと。小通地区は、まさに芭蕉の句そのままに軒並み柿の木を所有しているようである。

今は種なし

ひと山越えて立根に着く。ここも市内では柿の多い所で、原産地に近いことと、南向きの地形が幸いしてか、三陸の肥田に次いで味が良いように思われる。大船渡市では、ほとんど外来種の柿は見られなくなったので大変よいことだと思う。昔は肥田柿でも種子があったように覚えているが今は種なしで知られている。

十二時十三分の三鉄釜石行きで三陸町の肥田の部落に辿りつく。急坂道の一番上の家が、肥田柿の元祖・○沢平吉様のお宅に柿の木のお話しを伺いにお邪魔する。御主人と畑から戻ったお婆さんの二人が、色々と昔からの事を心良く話して下さった。畑の斜面の革ままに二本あるのが肥田柿。そもそもの元木だが、何代前に植え付けたのかわからないが、ざっと・二百年ぐらいにはなるだろうとの話でした。

元祖・肥田柿

今年は、さっぱりだめでがす…と○沢さんは言う。なるほど、よその木を眺めると、枝も折れんばかりの鈴成りで、かなりの豊作のようだ。元祖肥田柿のそばに行って見上げると、他の木は柿も色づきはじめ葉もたくさんついているのに、その老木二本には一葉もついていない。数えてみたら小さな実が申し訳ぐらいしかついていない。何年も前からその木に親しみ共に育ってきた柿、晩秋の楽しみの一つとして通い続け、数えてみたらいままでに何千個は食べたであろうその原木の哀れさに涙がこぼれそうだ。周囲には柿の木もたくさんあるが、未だにカラスや小鳥たちも、その老木に集まっては実を啄(ついば)むとのこと。○沢さんも、この木だけは毎年晩霜の頃にもぎ取って熟し柿で食べると言う。これがほんとうの柿の味だと言った。私も同感で、小鳥たちが集まるのも柿の味のよさを知ってのことだろう。以前にも書いたが、我が家の名残りの一本の柿が今年も豊作で、四百個以上は収穫した。台風の影響で立枝は全部ほろき落とされた。残りの分は枝のまま軒下に吊るし春まで楽しむことにする。この熟し柿は実に味がよいのだ。

栄養失調?

私の思うには○沢さんの所有の原木は、老木と言うこともあろうが栄養失調もあるのでは?秋に下草を取ったり、思いきって古枝を剪定し、遠根の周りに充分に施肥し木の若返りをさせてはどうでしょうか。柿ほど手のかからない果樹はない。病害虫に強いし袋かけの手数もかからない。収穫は幸いにも農閑期で作業が楽だ。

○沢さん宅では一時間ぐらい柿にまつわる話など色々聞かせてもらい肥田の里を後にした。振りかえり見れば高い畑の上から肥田柿が我々を見送ってくれた。元祖肥田柿発祥の碑はどこにも見えなかった。

三つの呼称

話は別になるが気仙には三つの柿の名があるようだ。三陸町には肥田柿、大船渡市には小枝柿、陸前高田市には広田町の越田柿。私は個人的に原産地の呼び名を呼ぶことにしている。

終わりに、専門家たちは柿の木の育成にもっと指導充実し、若木をたくさん増殖し、柿の果樹園にし将来は名実共に柿の里の生まれることを念願している者です。

盛郷八景に想う

丸森の帰帆

尾崎の夕照

赤崎野嶋が見えて塩

煮所東釜が見える

佐野田の落雁

今出の秋月

洞雲寺の本堂は明治時代大増築されたその以前の姿

樅の木は明治中期落雷で二又から折れて現在四度切りつめられた

長谷の晩鐘

愛宕の晴嵐

五葉の暮雪

関口の夜の雨

十月三十日の貴紙の世迷言を愛読させていただいて、私の思い出が甦りました。以前から盛郷八景の句をよまれた作者の氏名(本名)や出身地等を調べてみたが、八人のうち、三人位しか判明していません。世迷言氏のお話しの通り、昭和初期の作句と、それ以前の明治初期と思われる作句と、二種の作品がありますが、昭和の句は私の同級生の一人も作句になっています。私も同様に長寿で健在でおります。

その当時の俳句同人の一人で「五角」と言う雅号は、大内病院の御尊父様で眼科の先生で、文芸面でも幅広い才能の方だった。そこで古い話にもどるが、同封の複写の絵は、明治の初め頃のものと思われる。盛町の洞雲寺の裏山からの写生で、盛八景を鳥瞰したもので、その時代から八景の句を作られたと思う。

この絵は、伊達家のお抱え絵師が描いたもので、また、この句の作者と判明した人は藤野君山です。明治三年八月から十一月まで、盛町に滞在して愛宕神社にある王子陵の調査に来られた人です。四国の愛媛県出身で、藤野静輝と言う事(保原屋支店の祖父・幸助様)だが、その辺まではどうやら調べて見たが、先輩古老を尋ねても判らなかった。知っている方はどうぞ教えて下さい。古い方の八景もよろしくお載せ下さい。

盛郷八景

  • 佐藤一楽 ○愛宕の晴嵐 草木なでなびく愛宕や青嵐
  • 鈴木文山 ○長谷の晩鐘 葉桜をもれてくるなり暮の鐘
  • 保原一静 ○関口夜雨 関口や雨ぬいぬいにとぶ蛍
  • 佐藤素月 ○丸森の帰帆 丸森の夕べ涼しやもどり舟
  • 水野仙斧 ○尾崎の夕照 夕映えのすいやもみじの尾崎山
  • 鈴木正山 ○今出の秋月 たそがれて今出の山や今日の月
  • 水野玉堂 ○佐野田の落雁 曙や佐野田に降る雁の声
  • 藤野君山 〇五葉暮雪 ひと景色ますや五葉の暮の雪

 

昔の街道と橋

日本国の道路元標は、お江戸日本橋の中央に鉄柱で建てられてある今日、なぜ一里塚を探さねばならないのか。盛街道は現在の地図にも記載されているが、街道元標建立せずに一里塚を建てるのがわからない。
明治後に開通した現在の道路を走行して4キロだから約一里だ。では9月3日付の東海新報に投書された方のように違和感を覚えるのは一般市民だれでも同じではなかろうか。

正確に後世に伝えよう

最近の報道では、立根の一里塚も市文化財指定したとの事だが、史跡の保存が大事だということはもっともだが、もっと調査をしてから、わからないところは実際に測量して、ある程度の正確さを後世に伝えるべきだと思う。

現在その事業に当たる方々は、旧道の地理には不明の事が多いように思われる。たとえば松の木などがあったとか、まだ馬車もない時代に馬車が通った話。何百人もの溺死者とあらゆる家財や牛馬を、船もろとも流出した明治29年の大津波には、考えてみただけでも史跡の残るわけがないと思う。

以後の国道、県道に新しく一里塚を設定するなら話は別だが・・・。

盛川全域の板橋一本橋

私の記憶と幼い頃の聞き覚えを思い出してみよう。市民の生命の泉・盛川にも重要な橋さえ、人馬の渡れる橋はただ一つの稲子沢橋だけで、全盛時代に財閥稲子沢家が個人で架けたが、明治時代に大洪水で流出した。以後、倉の淵に県道が開通して猪川町新道を通り、盛街道水沢までは現在の国道になったが、107号線も北上まで。

私等子供の頃までは、盛川全域板橋の一本橋。写真のように牛馬は手綱を取って川下をざぶざぶ渡る。盛町の年中行事のお天王様も、お神輿をかついで権現堂に浅瀬をこぐ。

そんな訳で、中井渡り、佐野渡り、六地蔵渡り、いずれも洪水、出水では板の渡りは取りはずされて、通行止めとなる。

そんな時代は大正の初期までで、本格的な橋の第一番は、木橋の権現堂橋で、奥四ヶ浜に牛馬が渡れる様になった。現在の権現堂橋は4度目の橋だ。

大船渡へは盛街道を

私の部落は17戸で、登記所、盛税務署、高等小学校(4年制)を含めても20戸くらいだった。権現堂を起点に用水路が、今なら毎日の生活用水路が街の真ん中を流れ、両側が水路をはさんで商店街を通り、現在の市役所通りは沢川の流れが桜場を横切り、盛街道はここで地蔵様の前で直角に左に折れて、50メートルで土橋を渡って、その川に沿って田茂山に通り、40戸くらいの部落を抜けると、大船渡には道が分かれ、右に地の森峠と古沢畳屋さんの前を斜めに左に進む。

盛街道で津波の碑があった。一本杉と言った。電話局の裏を通り、両側一面の田んぼの通りを過ぎる頃に左に東釜の跡の棒材の残り、昔の製塩所跡が目につく。欠の下の街道を通り、茶屋前を過ぎれば人家はまばらで、千葉新商店が角で田んぼの中を、関沢医院の裏通りでそこらで地の森から赤沢を越えた細道が合流して川原、田中、馬越で、田中には赤い明神鳥居が割合に広い道路を跨いで立っていた。町役場は確かこの辺りにあって、佐藤文助町長時代のことだ。

地名が残ったのは加茂の明神様、旧大船渡中学校あたりがお宮の跡で、その下が現在の明神前と思う。

街道元標設置が先決

それで明治時代まで須崎川だって橋らしいものはない。今の須崎橋があれば一本の板橋で馬越あたりからは、平常、水が地下にもぐり笹崎に行くにも、潮水が流れ込まない川原を歩いた覚えがある。現在の茶屋前通りが開通以前の事で、ついでに書くようだが、旧街道の一本杉の津波襲来地点の記念碑と佐野渡りの六地蔵も、昔の人が念願かけて建立された事と思えば、元の地所に移転してはどうだろうか。

終わりに街道元標を設置するのが先決ではなかろうか。