気仙の村社と狛犬

八十八夜は春一番の季節、若芽の吹き出る緑は最高の景観を描き出す。

旧今泉街道を矢作川に沿って逆登ると、間もなく鳥井が右に見えて、矢作町村社である事がわかった。タクシーを待たして、社殿と狛犬を尋ねて、急いで撮影を終えて、また車が二又に進む。

国道を右に折れて、第二の目的地である閑薫院に坂を登る。新緑の雑木林に山桜が点々と色彩を添え、渓流には釣り人の姿…と来ては、日本画の構図そのままだ。

それに白糸の滝が豊かな清流を思い切りよく落下して、10メートルの爆となり、初めて見る二又の沢にしばらく見とれた。秋の紅葉に思いをダブらせ、ファインダーをのぞき、シャッターを切った。二又の別れから1、2キロ、坂は再度橋を渡って、右に折れ、地形は滝の上を通るという形になる。閑薫院の建築物は、小川をはさんで、雑木林に囲まれて、ひっそりとしたたたずまい。鎮座ましまして参詣者を迎えている。

境内も広くはないし、仏閣も小じんまりとしている。だが、その構造と建築技術の粋と彫刻の精致さ、奥殿の六角堂のつくりといい、実に気仙大工の見本をあの山奥に造営したように感じた。

参拝と撮影を済ませて、ひと休みしたが、弁当にはまだちょっと早い。今日の予定は達成した。降らず輝らず、さわやかな中、若葉に映える鯉のぼりと野鳥のさえずりを耳にして、またも目白の鳴く音の無いのには驚く外はない。

「運転手さん一つ相談だが、予定より早いので、気仙一周して帰っては…。都合悪くなければ頼みます」と持ち込むと、心よく承諾してくれた。気仙の村社と狛犬を尋ねて約五年間、自分で免許が無いので、列車、バス、ヒッチハイクと恥も外聞も忘れて、利用出来るものは便宜をはかって貰って巡り歩いて来て、残りは気仙町、竹駒、横田の三町だけとなった。ここまで来て撮り残したのでは、また改めて出直して来なければならない。

そうと決まれば…と矢作川筋を今泉町に急ぐ。天神下に剣豪千葉周作の誕生の碑を左に拝し、右は村社天満宮がある。境内も広々として、数百年の老杉には日を見張る。参拝して竹駒神社にもうで、仲間と二人で運転手にシャッターを切って貰った。

ここで弁当の予定だったが、撮影が終わる頃から空が暗くなり、雷鳴が聞こえて、ポツリボツリと来た。車で昼食を済ませ、最後の目あて地、横田町に車を飛ばした。

雨は次第に本降りの様相。あと一社で撮影が満願となるのに、今までは一度も雨にも雪にもあわなかった。幸運は神様のご加護、と感謝して撮り続けたが、最後の横田町で初めて雨降りとは残念。暗いのだが、「びしょ濡れになっても撮りかねてたまるか」と決心して、高い石段を駆けるように登った。老杉の枝からは滴が落ちる。ストロボが光る。神域の撮影がこれで終わった。

急いで車に戻り、濡れた衣服を拭きながら、心の奥から熱いものがこみあげて来るのを覚えた。他人には解らない自分だけの誇りと感激である。これから町別神社と狛犬の整理をはじめるのであるが、万民心のよりどころと憩いの神域、やすらぎの鎮守の森は、永久に守護される事を祈念してこの稿を終わる。

忘れられない不動様

六度目の参拝果す

3月26日、日曜日、快晴。長閑な春を満喫・・・三鉄・甫嶺駅を七時半頃下車した。

大船渡市歩こう会の一行30名が綾里野形のお不動様までの道程を強行だ。私は長道中はとても無理だ。9時24分の三鉄で行き、綾里駅からは親戚の娘の車を呼んで、お不動様まで送ってもらって一行を待つことにした。

昨年、例祭日から映画のロケーション等で行き、今回は六度目の参拝だ。そして、小林旭が残してくれたセットの移設とその景観を見たいのが本趣なのだ。

重要な観光地

神域の入口に豪壮な屋敷門、その左右の袖に塀まで巡らし、その前には高々と鳴子も建ててある。日曜とあって、家族づれなど参詣は多かった。

来る人は皆鳴子の綱を引いて、櫓の上の竹筒の音色を楽しみながら境内に進む。

重い扉の木戸を半分閉めて撮影して、神域に入る。その参道は、行くたび目を引くが、実によく整備され、参拝者の芥一つもないのは気持ちがよかった。三陸の文化財として重要な観光地であり、春来る鬼の試写会も東京と盛岡で日程が決まり、宮古で封切るとの報道だ。

小林旭もまた…

三陸綾里の不動様がクローズアップされて、日本国中に知られるであろう。小林旭の最初の第一回の作品映画。彼は一生涯忘れることのない思い出深い不動様に、必ずまた参拝に来る日があるだろう。

参拝者が三三五五参道を登って来る。私は、神域の撮影を5、6枚、シャッターを切り、門の前で歩こう会の着くのを待つことにした。

予想外の行程に健脚の連中も三時間以上かかるとは思わなかったらしい。婦人の方は、ちょっとパテ気味に見えたが、それでも回復は早い。門前で記念撮影をしてあげた。

映画撮影セットの保存、観光利用を協会に提言したのだが、門だけでも保存されたことを喜ぶのは私と小林旭だけではないだろう。今年の例祭日は一層賑やかだろう。

住田を尋ねて

春の彼岸も過ぎて、いよいよ老人の季節となり、森羅万象あらゆる生物が目覚め始める。小さな生命は、それなりに生長をはじめ、今から秋の実りを楽しみに精一杯のスタートだ。老人も遅れじと、動き出すことにした。

今日は朝から晴天で、風もさわやか。カメラを肩にバスに乗った。降りた所は住田町世田米の入口、大崎だ。村社は杉の古木の鎮守の林の中だ。見上げる石段の高いこと、目測五十メートルはあるようだ。中心は頂上まで手摺りが設置されて居たが、八十歳の身には急傾斜はきつかった。

何回も、立ち休み、登る。中段のおどり場に一番のお目あての探し求める狛犬が左右に下を見下ろして迎えてくれた。

カメラのピントは入念に合わせた。林の中で光線が弱いので、ストロボのスイッチを入れた。このあと再度、神殿目ざして登りつめた。参拝して帰路は裏参道を降りた。

狛犬尋ね五年

JRバス駅で上有住駅行に乗車した。八日町入口の橋のたもとで下車して、橋を渡れば右に杉木立の森が目につく大きな神明鳥居がある。村社である事はすぐわかった。しかし、世田米の天照皇大神宮と鳥居が違うので、不審に思った。皇大神宮の方は神明鳥居だ。やがて、表参道の石段を二十段ほど登って拝殿前に着いた。

人影はないが、無断で扉を開き、神前にて拝礼した。見上げれば金文字で立派な額に「五葉神社」と彫刻されていた。

内外を撮影して、第一の目標狛犬の姿を求めて境内中探したが、ここには狛犬は無かった。五葉神社は、大船渡市の日頃市町村社もなぜか狛犬が無いのだが、どうして五葉神社には狛犬が無いのか不思議だ。

狛犬を尋ねて五年目になる。三陸と大船渡と住田と神社を順々に巡って、残るは陸前高田市内五ケ所だけで、念願の気仙郡内の村社と狛犬が撮り終えるのだが、狛犬は即ち石の彫刻に魅せられてのこと。住田を終わり、帰途についた。

再度高瀬へ

そこで昨年秋に撮影に失敗した下有住高瀬の千本桂の名木を、再度、葉の茂る前に撮影することを思い出した。

バスの時間を割り出して見ると、帰宅まで3回乗り次ぎしなければならない。思案にくれて八日町を彷捏していると私の自宅近くの酒販会社の小型トラックが停車しているのが目についた。

〝渡りに舟″と恥も外聞も忘れ、高瀬までの乗車をお願いした。

運転者は一人で、卸配達の帰りだと言う。世の中には親切な人も大勢いるものだ。ご好意に甘えて高瀬に急いだ。五分間ぐらいの道のりだが、車は速い。気仙川筋を南下して、やがて車は私の目ざす桂の巨木の根元で停車した。

驚いた事に車内で自分の今日の目的を話したのだが、「どうせ帰るだけだから心配無用。ゆっくり必要な写真を撮りなさい。待っていてお宅まで送って上げるから」という。其の親切な心と老人に対する思いやり、なんとも感謝の気持ちで快くカメラのシャッターを切ることができた。

待っていただいた車に乗って改めて考えてみた。会社の勤務と車の責任とを心得ての親切、心深く温めて一生忘れる事がないだろう。

改めて多謝

3、4日後酒販会社の所長さんが証明写真の撮影に来店して下さった。はじめての面会だったが、車の親切のことを話すと「あなたの記事は楽しく読んでいる。自発的に思いついたことの記事の写真撮影の時は、会社の車を利用して下さい」とのこと。私の趣意を御理解下さってお許し下さった。御好意有難うございます。

その折り、氏名も開かずに申し訳ありませんでした。所長さんからお聞き致し、また甚だ失礼ですが、遅ればせながら佐藤光男さんに心からお礼申し上げます。紙面を拝借致し恐縮に存じます。

なお、高瀬の桂は、玉桂と地元では呼んでいる。樹元には一間四方の祠(ほこら)があって、竜神が祀られ、下有住住民の信仰の祭神であるようだ。

樹形を観察するには、葉の茂る前でなければ幹や枝が多くて困難だ。今は木型がりっばだ。

二戸郡浄法寺の天台寺は、瀬戸内寂聴住職。作家でも有名な方だが、信仰の源泉は桂清水であると言う。それにも増して、高瀬の玉桂は樹幹の太さ、高さ、樹体形は実に素晴らしい。名木である。

住田町に提言したいが天然記念木として保存指定はどうかと思う。甚だ失礼な進言ですが、思いつくまま……。

三陸町の文化財を見学して

大屋と別荘両宅へ参上

気仙大工の精緻を極めた技術に圧倒さる

最初から連絡なしに突然参上して家宝であるお堂と仏間を拝観は失礼とは思ったが、気の向くままに三鉄に乗った。綾里、砂子浜の大屋様(大船わたるの生家)を訪問した。かねがね、一度は拝観したいと思っていたし、友人にも奨められてもいた。

お伺いすると、ご主人不在で、奥様が親切に快くご案内下され、お堂の扉を開いて、正面から拝礼して内外をスナップ写真に撮らせてもらった。

その彫刻の巧妙華麗さと須弥壇表面の阿弥陀如来像の神々しさと左右の襖の仏画等、何百年の歳月、地元信仰のやすらぎの場であったろう。よく整理整頓が行き届き、りっばな堂内で、よく見せてもらった。

いまひとつ、仏像と建築物で知られる通称「花輪の別荘」へ向かった。ご当主・熊谷裕一様宅にはこれが二度目の訪問。電話で、あらかじめ承諾は得ていたので、お蔭で40数年ぶりの拝観だ。同家は50メートルほどの高台で、港の出船入船は目の下。岩崎野形方面まで一望出来る場所。景観は綾里一だろう。

巨匠・花輪翁

話はその別荘建築までの巨匠・花輪翁の忍耐と努力の苦労の一端を申し上げなければならぬ。立根町安養寺建立の頃は、時折りお逢いして、種々の一代記を話して聴かせて頂いたものだ。

高田町立小学校請負建築は32歳の花輪菊蔵が本名だった大正初期と記憶しているが、高田小学校新築落成式を近日に迎えるばかりの矢先、火災で全焼したのだった。

彼は最後まで不審火と思い続けて話していた。当時、請負入札に地元大工が負けて、他所者の綾里村の菊蔵が落札したのだが、内心地元大工組合職人は憤満やるかたなかった事は推察出来る。

受け渡しが済まないうちの大災害に、棟梁・菊蔵は悩み苦しんだに違いない。心中や思いやられる。職人の賃金諸支払いも出来ず、苦慮の末、一大決心で、家も家族も捨て、新天地を目ざして北海道に逃亡した。菊蔵の運命の大転換の発祥の地は札幌で、借り手のない一軒家に単身住んだ。

改名して名あげる

殺人事件があって幽霊屋敷と言われていた家で、家賃いらずの家だった。何年住まいしたか聞き忘れたが、あまりの淋しさに眠られぬ夜が何夜も続いたと言う。

毎日が他人の仕事現場の下働き。やがて芽が吹き、宮大工を目標に努力し、花の咲かない菊蔵を改名、喜久蔵で名を挙げた。神社仏閣専門に、遠く樺太までも建築の要請があり、東北から北海道全域まで宮大工、花輪巨匠の名は有名になった。

喜久蔵の遺産は、神社仏閣を百ケ寺建築した記念としての「花輪の別荘」で、其の名は三陸では知らぬ者がないくらいだ。

建物は華麗ではないが、百ケ寺の寺社の残材余材の結集で、何億円の費用をかけても集材の出来ないもの。ほとんどが北海道産の貴重な建築材である。

その頃、100トン以上の船は綾里の港に接岸出来なかったので、小船で港外で荷役して、海岸から人夫が1本1枚、材料を担ぎ上げたという。

専門の知識がないので説明不足だが、3尺廊下の1枚板は印象に残る。歴史が浅いが、室内工作建具等は精緻を極め、民家としては気仙大工の最高の技能を傾注したものと思う。

奥の座敷が仏間。やはり正面は阿弥陀如来像が安置され、規模は壮大ではないが、荘厳華麗な技工。色彩の美しさは実に見事なものだ。須弥壇左右の仏画も立派だ。なかでも6尺屏風が見事だ。6枚続きが1曲、2枚屏風3曲がたてに巡らし、これは年代物と拝見した。仏教語もわからないが、皆それぞれの御仏様の絵が一仏ごとに書いてあった。

花輪翁の一生一代の遺作の結集品ばかりで、三陸町の一つの文化財である。仏間も大谷石の蔵に保存の計画があったようだが、地震で蔵が破損して奥座敷に安置されている。

巨匠花輪翁も安養寺建立が最終の仕事で、昭和17年10月2日逝去された。その足跡は建築史上に残るものとなっている。

憩いの場建設を

時代の進歩は、実に目覚しい。特に、青少年の体力増進は驚くばかり。各学校ごとにグラウンドが整備され、室内競技場があり、プールのない学校もほとんどない。

そのほか、スポーツの場は、市営野球場、バレーボール場、ゲートボール場、また冬のスポーツの不能をカバーしてローラースケート場もある。健康な若者の体力増強には事欠かない時代となった。ありがたいことだ。

ところが、完備した設備を利用できないでいる人が大勢市内にいることも忘れてならない。スポーツ不敵な人もあれば、嫌いな人もある。年老いてくれば万能スポーツマンだった人も利用できなくなってくると思う。真に求めてくるものは何だろうか。

私は、一億円をかけて身近な丘や原生林を、スポーツを卒業された人たちの憩いの場にしてもらいたい。年中森林浴が出来たり、秋には紅葉を楽しんだりですばらしいと思う。やすらぎの平成の森の造成を設計して、再度、投稿したい。どうぞよろしく。

ふるさとの文化財めぐり

その日は冷害凶作の後遺症のような秋雨の降る日で、市教育委員会募集の〝文化財めぐり〟に参加させていただいた。昨年11月29日だった。市役所車庫前集合で、九時には全員顔ぶれが揃った。参加者は全員ご婦人ばかりで、老爺一人では圧倒されそうだった。

日程表が市役所の係員から配られ、見学のあらましの説明があり、会員9人と市役所から二人の係が案内役に添乗してバスは発車した。小通の太子堂は初めての拝観だ。他の所は何度も見ているが、改めて見ると、なつかしさと好奇心もあって、内心期待して出かけた。

日頃市町関谷洞窟で約一時間、親切に解説してくれたが、、私の聴力に欠陥があって理解できかねるところもあったが、説明書を頂いているので、だいたいは解った。見学と写真撮影の方は目的を達成することができた。初めて拝観する小通の太子様と、ここでは柿の冷害ぶりも観察すると言う二股かけての観察で、発車のバスに乗り遅れそうになり、皆さんに大変ご迷惑をおかけし申し訳ございませんでした。

物を書いていて他事に思いが分裂するのが私の悪い癖で、また太子様の話に戻りますが、享和3年、宝暦9年、天明8年と、気の遠くなるような大昔の仏様が千年以上もの年月を災害にも遭遇せずによく保存されたものと感心した。

小通を出る時も小雨が降り続き、立根町細野の一里塚は車窓から見上げ、車内で説明がなされ、そのまま長谷寺へ向けて発車した車は予定時間どおり運行され、市を代表する岩手県指定の有形文化財、竜福山長谷寺、十一面観音菩薩を拝観してお寺の座敷を借り昼食をご馳走になった。

雨はその後も意地悪く降り続く。長谷寺の仏像は施設管理とも立派なものだが、寺の周辺も整備され道路も立派に舗装されて、ポンプ置き場なども移転し、きれいになったので遠来のお客様なども案内して拝観をさせたいと思った。

昼食も終わって次は末崎町に向けて出発した。やっと雨がやんだ。泊の熊野神社に参拝し、境内の天然記念物・三面椿を見て、一行は記念撮影となった。

最終見学の市立博物館には館長がおられ、椿の挿し木のご指導をしていただいているので、その後の生育管理のお話など聞いて、文化財めぐりは無事に終わった。そこで私の感じたことは、文化財の不足なことと、洞窟付近内部清掃と、出来得るなら奥に電灯をつけて、あの大ドウムをみんなに参観させたいと思う。見たならみんなが驚くだろう。

文化財を後世に継承するためにも管理費に予算をおいたらどうか。小通の太子像の戸障子は見るも気の毒なくらい破損していたが、なんとかならないものだろうか。次に、私は人に会うたび、うるさい程言うが、細野、丸森の一里塚も文化財なら、盛街道水沢-107号、北上-奥四ケ浜道三陸と、今泉街道の基点がはっきり解っているのに、なぜ権現堂の槻前に元標を建てないのだろうか。立派な文化財となるだろうが…と思った。

文化財めぐり、ご案内下さった方と、共に楽しく見学させていただいたご一緒のご婦人方、大変ありがとうございました。またよろしくおねがいします。

五葉山檜山騒動(柴琢治と喜福)について

平成元年というと、明治は遥かに遠い昔になったように思われる。三陸沿岸に最大規模の大津波が襲ったのは、明治29年端午の節句で、旧暦5月15日、夜明けにはまだ早い真夜中だった。気仙沿岸では、全滅した部落もあるほどの大惨事を被った。津波の高さは片岸で波高5.4メートル、小白浜16メートルで、地形によっては30メートルに達した所もあった、と記録にある。

押し寄せた3度の大怒涛が引いたあとの被害は惨たんたるものだった。たとえば、唐丹村を例にとれば、流失家屋360戸、死者2000余人、船舶210余、その他家畜多数。

三陸大津波

重軽傷者は、村でたったひとつの医院を開業していた柴琢治宅(元は鈴木姓)に運ばれた。電信電話は不通、海路は船がない。

陸路は寸断されて3方峠越えとなり、やっと赤十字から軍医と看護婦たちが救援に来たのは3日目だった。それまで家内と川目と山家方面の住民の応援を得て、自宅を開放、病室として看護に当たった。それでも不足で、兄の太仲の家まで借用、3日間、彼は一人で80人の負傷者の治療に寝食を忘れた。

その時、私の妻の叔父の舅磯崎家の先代留右ェ門が、漁師の食糧を蔵に保有していたが、開放して被災者家族を救済したのだった。それものち、有名な美談となった。

災害で村長も津波の犠牲となり、村の自治能力も根底から破壊された。村議は3分の2が奪われ、村は舵を取られた船のようだった。

32歳で村長

この村を救援できる人物は柴琢治以外にない。そういう村民の熱望で、彼は村長になった。時に32歳の若さだった。不安の中で医者の仁術を神様のように信仰した村民たちの熱い心の結果だった。津波のあと、村長席は空席だったのだ。政治力もあり、才能と実行力に富んだ青年村長の登場であった。

柴琢治にまつわる話は実に多い。武勇伝は多分に誇張されて伝えられている面も多い。私らにしても、生まれる前から明治末期の事件で聞いた話が九分通りで、いわゆる〝見てきた嘘”のような部分もある。

その中でも有名な〝五葉山檜騒動″は、屋根まで檜の柾目ぶきだった文化財ともいうべき建物が消えたということで、ここに書き残したかったわけである。

復興に奔走

さて、青年村長の柴琢治は、災害復興の手はじめに、釜石製鉄所横山久太郎に村有林を有期限売却。当時の金で7700円だった。この金の一部は、なにを置いても必要だった漁船漁具の購入資金にあてられた。そして、津波で流失した役場をはじめ、郵便局や駐在所等を建築した。道路を拡幅、橋の架設も行い、村政をようやく軌道に乗せた。

村議会はたびたび開かれたが、議論百出してもさらに強力な村の再建策は見い出せなかった。柴琢治の腹案で釜石製鉄所に再度、村有林を売却することを決議、その成否を彼に一任した。

全責任の彼は、以前、木炭用雑木を売っていた横山久太郎に、上物の家具、及び建築材を前払いの形で、7700円の範囲内で伐ることで売った。

しかし、横山はすでに上物の用材も伐り、小白浜から船で東京方面へ運搬して草大な利益を得ていたので、村有林には立木は少なく、地続きの国有林でなければ金になるような木はない。

あいまいな境界

ここで問題となるところがあった。村有林と国有林の境界があいまいで、林区署の地図と唐丹村の地図が食い違っていて、村有林が国有林になっていたことだ。
そうと柴琢治がわかったのは、父・三折が明治のはじめに税金を納めて、五葉山の一部を部落有林として買った書類を見ていたからであった。

廃藩置県当時、伊達藩の膨大な山林と原野に所有権のある者は、届け出るように、との通達があった。「明細図と1町歩につき1両の金子を納入すること。届出なき土地は国有とする」というものであった。柴琢治の父・三折は、部落の人々の同意を得て、地図を書き、金子20両を納めて20町歩の土地山林を取得したのだった。

それがいつの間にか国有林にされてあった。林区暑が役場の書類も地図も見ないで、勝手に国有林にしてしまったらしい。廃藩置県後の山林原野の間違いは大混乱して、長く事件として後々まで尾をひいた。

波乱の端緒

当時の盛小林区署は喜福から100メートル地点のところにあった。柴琢治はそこに出向いて、署長に山林境界の測量に唐丹村へ出向いてくれとおねがいして、承諾を得ていた。その測量の日はあいにくの雪降りだった。

調査は地図の上の机上調査だけで終わり、小林区署員一同帰って行った。村長の手腕と才は、見事に万事をうまくいかせたかに見えたが、柴琢冶波潤万丈の生涯となる大事件の端緒であった。

境界問題がこれで解決したわけではなかった。山林は釜石製鉄所に一万円の高額で売られ、売買契約書が交わされた。それによって村の窮乏は救われたものの、再度、境界測量が実測で行われ、国有林の盗伐事件として五葉山檜騒動に発展していったのだ。

総轄的な責任はむろんのこと柴琢治村長にかかってきて、やがて盛警察署から出頭の令書が来た。

さっそく出向いて、明治初年の図面を証拠として、申しひらきに努めることになったが、小林区署には絵図面も書類も皆無だった。取り調べもなんの進展もなく、警察から出てきた。

利口な彼は、このまま2度目の呼び出しかあれば、5日や10日で村に帰ることは難しい、と判断、村助役、収入役、議長等にも万事を託し、妻子、使用人には「当分、雲隠れする」ことを言い含めて家を出た。

鍋倉山へ

村中は「村長様が姿をくらました」との噂でもちきりとなり、営林署がきても警察署員が来ても知らぬ存ぜぬで口を封じることになった。

村長は下男二人に言いつけて、鍋倉山谷の小高い峰の2カ所にあばら小屋を建てた。外からは林の中で見えにくく、逆に小屋の方からは沢道を遠くの方まで見通せるという〝砦″として考えたものだった。そこはちょうど洞岩があって、その下は雨が降っても漏れる心配がなかった。

夜具ふとんの類と食器などは川目の自宅から運ばせた。護身用として、東京での巡査時代に入手したと思われるブローニングピストルと自慢の狩猟用の村田銃を実弾火薬つきで持参した。これは護身ばかりでなく、実際に狩猟にも使うためであった。

こう書くと、なにやら孤独の一人暮らしを好んで引っ込んだようにとられるが、彼は豪胆そのもので、警察を恐れて萎縮しているような人物ではなかった。一面では女なしでは暮らせないような男で、一方、村からは村内状勢が逐一連絡された。食事も届く。衣類などの差し入れも行われる。夜ともなればたまには里下りもして来る。

もともと柴琢治は盛の町の中にしばしば姿を見せていた。私の向かいの出羽たたみ屋の娘・おがっちさんは、彼の3度目の妻だった。このおがっちさんには、事件の主題となった総檜、総2階の豪壮な料理屋が建てて与えられた。「寿屋」として営業させていたのだ。もちろん気仙郡下随一の建物だった。

津波のあと、どういう訳か料理屋、飲食店、モッキリ屋などは大繁盛。

お尋ね者

盛税務署のあった地の前身であった「作楽亭」も桜場にあって、負けず劣らずの盛況だった。不運にもこちらは桜場の大火災で消失した。気仙大工の技術の粋が結晶した建物だった。新築落成したその夜のうちに燃えてしまった。私の生家のうしろ隣りだった。西風の強い日だった。五軒長屋が火元で、原因は提灯の置き忘れだと言われた。

この騒ぎのとき、ほっかぶりをして顔をかくした中年の男が、作楽亭の娘さんを背負って助け出して立っていた。それは警察が捜査しているお尋ね者の柴琢治だった。

五葉山に十年隠れたとの話がもっぱらだったが、盛の町にも始終出入りしていたので、別に火事場にいても不思議ではない状況だった。盛の人々は彼を援護し、隠匿し合ったので逮捕されなかった。おまけに、警察側の捜査の状況は、手にとるように連絡されていたので出入りは自由だった。

檜の総二階

作楽亭の焼失は実にもったいない災難、世間から気の毒がられたが、当主・熊谷駒吉は親分肌の事業家。「水で儲けた金が火で消えた」と大声で笑い飛ばす剛気さだった。その後、総二階の曲り家を建てたが、景気は悪くなり、やがて人手に渡り、最初の税務署として貸家にされた。

話がそれたが、寿屋も同様にバッとしなくなった。

そして、やがて文字通り檜舞台の櫓の総二階を残して小白浜へと引き揚げていくことになる。戸主・柴琢治は警察に追われる身でありながら、小林区署から100メートルばかりのところに総捨の料亭を開き、堂々と営業させていたのだから、とんだ破天荒なことだった。国有林盗伐の汚名を着せられた男が、その材で料亭を建て、白昼から芸者をあげての三味線の音を響かせるのだから、それを聞かされる署員たちの気持ちたるや複雑だったろう。

おがっちさん

私にとっては、幼児の頃のことで、この時の細部の事情は知る由もないが、お尋者の主人を持った妻おがっちさんの日々も心おだやかなものではなかったろう。盛をひき払ったあと、小白浜でやっぱり寿家の名で開店していた。

昭和5年ごろ、小白浜へ行ったとき、招き入れられて、お茶をいただき、おがっちさんに初めて会ったが、美人というほどではなかったものの、でっぷりとした女丈夫。いかにも女将らしい風格だった。そのおがっちさんも昭和8年、大津波で寿家とともに海の藻屑と消え去った。

一方、盛にあった寿家の家屋敷はどんな手順でどうなったのか、明治末期に桜田家が引き受けて、初代喜福を開業した。初代は私らの生まれる前のことで、推測すら覚束(おぼつか)ないが、二代、三代、四代と代を重ねるにつれて隆盛を極め、気仙郡内一の割烹店として、宴会や集会に利用された。殊更、有名人、知名人の宴席として利用されることが多かった。

庭には、天神山の桜と同時に六十数年前に吉野桜が植樹された。二階軒下には数百個の電燈が灯され、花見どき、昼をあざむくばかりの照明が幻想的で、美景この上なかった。

名残りつきず…

その後、戦後になってからは、生活様式そのものが変わって、大宴会場や、結婚式場、それを兼ね備えたホテルといったものが建った。営業面で競争が激しくなった。

四代目当主は不幸にも早世された。女将まささんは悲しみを乗り越えて大英断、喜福の看板をおろしたのだろうが、四代目の弟さんには大船渡プラザホテルの桜田氏がおり、女将の末弟には独力でモスバーガーを拓いた桜田慧さんがいる。これらの人たちがアドバイスして大転身を遂げたのだろう。六十有余年、陰に陽にお引き立てをいただき、お世話になった私としては、メゾン桜田の永遠のご繁栄をお祈りしたい。

喜福の思い出は名ごり尽きないが、残念ながら市内の文化財がまたひとつ消えた。

枯れゆく名木〝樅″を惜しむ

今も盛六郷を碑睨

名木・洞雲寺の樅の木は樹齢600年とも、それ以上とも見える。洞雲寺ご開基以前にそこにあった木であると思う。なぜならば、あの大木にしては根張りが見られない。たぶん下の池の底に根があって、お寺を建設の時、土盛りして小さな沢と共に埋めたてられたように思われる。

根元から腐れが上がり、中が空洞になったが、巨木の強さは、それに耐えながら樹齢を保っているのだろう。明治20年代の落雷で二又が折れたと言うが、私が子供の頃にはすでに屋根がかけられてあって、生木に屋根があるのが不思議で、よく見上げたものだった。そして50メートルもの高さに誰が建築したものだろうと、その度胸と技工に、子供心にも感服したものだ。

やがて昭和の中期に寺に遊びに行って驚いた。2メートルぐらいの樅の木に1メートルぐらいの太さの樅の丸太が寺の庭の真ん中のコンクリート参道に減り込んで落下
し、屋根は破損していた。その後、切りつめられて〝トタン”でカバーされたが、次第に枯れが目立ち、枝が落ち、樹皮も剥がれ、木肌が見えてきて昔の面影はなくなった。枯れた部分を切り詰め、これで三度目だが、自分の身が痛むようだ。

然し、自然とはよく出来ているもので、そのそばに、ざっと30年ぐらいかと思われる若木(後継木だろう)が1本生えていた。あの親木なら、あたり一面繁殖しそうなものだが、洞雲寺境内付近の山には一本の樅の木も何十年とも見たことがなかった。

後継木も親木に勝るような立派な立ち上がりだ。これがまた五百年以上も生い繁り、盛六郷を睥睨することだろう。何百年の雨風にも負けず、雷にも耐え忍び親まさりの巨木を成してくれ。枯れゆく名木・樅を惜しんで…。

「観音様」

今年こそは稲子沢の観音様拝観を叶え、80年ぶりに思い出を起らせたいと念願かけたが、岩谷堂に知己のない者としては連絡のとりようがない。それに、おろかにもご開帳の月日も、ご縁日はいつなのやらも知らないのである。

管理者わかる

昨年1月7日、七草の日だった。とにかく江刺市役所の観光係に電話をしてみたが、驚いたことに、観音様の話はなんだか聞いたことはあるが…と、まるで他所の事のような返事で、我々が思ってた程に地元には知られていないこと、また、それ程観音様を崇拝する者はいないような感じだった。

電話の向こうとの会話の後やっと管理を依頼されている人の事がわかった。三音社
で柏木都海男さんという人がその管理者であったが、鍵を預かっているわけでもないし、拝観を任せられている訳でもない。ただ見回りを頼まれているだけで、いわゆる”ガードマン”の役なのです。

初めての面会を楽しみに

ご当主は、花巻市で幼稚園を経営なさっている方で、私と同年輩ぐらいの、先代の未亡人、小原ハヤさん。ご子息は県職員・善次様。電話番号もわかったので電話をかけてみたところ、82歳のおばあさんとは思えぬような若やいだ声で、私が観音様を参拝したい趣旨をご理解下さって、観音様の今日までの謂れ、由来、由緒まで、とてもご親切に、30分も説明してくれた。

実に感謝のほかない。まるで観音様のお声を聞く思いだ。私の年齢も明かし、どちらも高齢なので、お互いに達者で…と、11月のご開帳の時に岩谷堂での初めての面会を楽しみに電話をきったのだった。

これが昨年のこと…1月から11月までが待ち遠しかった。先頃、猪川の有志たち100人ばかりが団体を組んで観音参りに行って来た話を聞いてうらやましかったが、当日は仕事の都合で残念ながら行けなかった。年が明け、今年こそは…と心に決めた。

稲子沢観音様の里帰りの話は今までも何十年と聞いてきた。私も賛成だが、何しろ百年も経過しているので、岩谷堂では 「中善観音」と呼ばれ定着している現在、果たして小原家では里帰りの話に乗ってくれるだろうか。それが先決問題だと思う。忘れた頃にまた買い戻しの話が何度も出たが、具体的な計画構想は聞いたことがない。

里帰りは無理か?

里帰りは猪川、盛の人なら誰でも望むところだ。昔の事を想像するのは甚だ気がとがめるが、当時、500円の代価でお堂から土台石まで解体され、盛街道を大股、姥石峠を越え、観音様が運ばれて行く時、手を合わせて見送る地元の崇敬者たちはどんな気持ちだったろう。

それを引きとめるだけの力の持ち主はいなかったのだろうか。せめて菩提寺の洞雲寺にでも安置できなかったろうか。私の計算では、当時檀家は大体500戸ぐらいとみて1戸当たり1円ぐらいの寄付があれば、何とかなったのではないかと思うが、当時、寺には和尚以下5、6人の修業僧と女中2人、寺男1人と和尚家族で10人以上は生活を共にしていたので、暮らしは決して楽ではなかったと思われる。観音様を引きとめるだけの資力は乏しかったと聞いてはいる。

それに三陸大津波、日清、日露の大戦直後、大事変等、人心の動揺で観音様どころではなかったようだ。話はまた元に戻るが、私の考えでは稲子沢観音の里帰りは無理だと思う。希望通りに買い戻しの話が成立Lたところで、数千万円ぐらいの資金が必要ではなかろうか。

荘厳豪華な仏間を建設

ここで貴重な人物を紹介したいと思う。

高額な私財(数千万円ぐらい?)を投じて、小さめだが荘厳豪華な仏間を建設して宗教に身も心も没頭し、仏の道に終生のやすらぎを求めている人がおられる。お話を伺って実に尊い日常の生活と、うらやましく思った。この人は盛町吉野町の菅原法正様と言う人で、ご本尊は先祖伝来の親鸞聖人直筆のお掛軸で、特別に製作した立派な箱に納めてあり、災害の時には持ち出せるように配備してある。しかもその直筆は法然上人が入寂15日前に書かれたものと言う。これは菅原家の家宝として代々受け継がれている。そこで本旨に戻るが、個人でこれだけの資金を投入し浄土宗を信仰して、檀家もなければ檀徒も見受けられないようだ。

平成観音像″を建立を

せっかく観音様を崇拝して安置するなら、新たに『平成観音像』を建立してはどうだろうか。稲子沢の観音様の里がえりの予算経費があれば充分実現しそうだ。これは手っとり早い計画構想のようだがここで問題なのは何よりもやる気があるのかないのかが先決だ。夢のような話ばかりが新聞紙上でも見受けられるが大構想と掛け声ばかりのようにも聞こえる。

何も稲子沢観音のお里帰りに反対するものではない。出来ることなら大賛成だが、今日までの成り行きをみていると無理な話のように思えるのだが…。「稲子沢観音」でも「平成観音」でもよい。誰か積極的に取り組む人はいないものだろうか。

私も数え年で84歳を迎えたが及ばずながらも協力させて頂きたく、願いを込めて愚考を書きました。

合足トンネル開通おめでとう

〝合足トンネル開通おめでとう″心からお祝い申し上げます。より速く、より近くは誰でも等しく願うところだ。蛸ノ浦、長崎の人たちの喜びも一入(ひとしお)だろうと思われる。狭い道路を騒音と粉塵をまき散らし、目的地・綾里へと通過して行く車をオロオロしながら何年と眺めて暮らしたことであろう。危険を抱え、無駄な神経をすり減らし、その間には哀れ事故の犠牲者も出たであろう。

新トンネルを

蛸ノ浦、長崎の人達の交通戦争もやっと終わり、元の静けさがよみがえったように思われる。それにしても児童、生徒の重要な通学路である清水、永浜の人達には気の毒だ。私が思うにはその開通の喜びも半分以下ではないかと思う。朝夕のラッシュの時間など、ドライバーたちはどんなに気苦労することだろう。また通学の自転車の人達も命がけであろう。羊腸のごときカーブの連続だ。自然の地形だとか、やむを得ない・・・で済ますのはあんまりだ。

そこで私の愚案を申し上げたいと思います。過日、三陸町に綾里野形のリゾート開発の提案を投稿した時も、構想の一つとして書いたが、永浜-野形間のトンネル掘削をしたらどうだろうか。長い間、九十九曲がりを四時間もかけて越えたが、峠の頂上から南面下の谷を見下ろせば、合足峠と山の幅はあまり変わらないように見える。合足トンネルは四百メートルだが、私の目測では同じぐらいの掘削だろうと思われる。大船渡-綾里間は、十分あまりで通れると思う。それに赤崎町山口付近から赤崎中学校を、山一つ越せば永浜だ。専門家でもないのに悪い癖が出て、思ったこと感じたままを書くので、悪しからずお読み下さい。愚考が実現すれば赤崎-蛸ノ浦間のバイパスが完成することになり、綾里-大船渡間はより近くより速くなり、産業経済、観光面にも大きなメリットが期待できると思う。

綾里と最短

この事業は、三陸町との共同でやるべきで、綾里とは最短で、これより近い所はないと思う。三陸鉄道は十五分、永浜トンネルは十数分と便利になり、綾里に通うドライバーたちは、合足に行く人たちより先に綾里に着くことだろう。

合足、長崎、蛤ノ浦方面の自転車通学の中学生たちにも楽しい通学路となることを心から願うものである。