大屋と別荘両宅へ参上
気仙大工の精緻を極めた技術に圧倒さる
最初から連絡なしに突然参上して家宝であるお堂と仏間を拝観は失礼とは思ったが、気の向くままに三鉄に乗った。綾里、砂子浜の大屋様(大船わたるの生家)を訪問した。かねがね、一度は拝観したいと思っていたし、友人にも奨められてもいた。
お伺いすると、ご主人不在で、奥様が親切に快くご案内下され、お堂の扉を開いて、正面から拝礼して内外をスナップ写真に撮らせてもらった。
その彫刻の巧妙華麗さと須弥壇表面の阿弥陀如来像の神々しさと左右の襖の仏画等、何百年の歳月、地元信仰のやすらぎの場であったろう。よく整理整頓が行き届き、りっばな堂内で、よく見せてもらった。
いまひとつ、仏像と建築物で知られる通称「花輪の別荘」へ向かった。ご当主・熊谷裕一様宅にはこれが二度目の訪問。電話で、あらかじめ承諾は得ていたので、お蔭で40数年ぶりの拝観だ。同家は50メートルほどの高台で、港の出船入船は目の下。岩崎野形方面まで一望出来る場所。景観は綾里一だろう。
巨匠・花輪翁
話はその別荘建築までの巨匠・花輪翁の忍耐と努力の苦労の一端を申し上げなければならぬ。立根町安養寺建立の頃は、時折りお逢いして、種々の一代記を話して聴かせて頂いたものだ。
高田町立小学校請負建築は32歳の花輪菊蔵が本名だった大正初期と記憶しているが、高田小学校新築落成式を近日に迎えるばかりの矢先、火災で全焼したのだった。
彼は最後まで不審火と思い続けて話していた。当時、請負入札に地元大工が負けて、他所者の綾里村の菊蔵が落札したのだが、内心地元大工組合職人は憤満やるかたなかった事は推察出来る。
受け渡しが済まないうちの大災害に、棟梁・菊蔵は悩み苦しんだに違いない。心中や思いやられる。職人の賃金諸支払いも出来ず、苦慮の末、一大決心で、家も家族も捨て、新天地を目ざして北海道に逃亡した。菊蔵の運命の大転換の発祥の地は札幌で、借り手のない一軒家に単身住んだ。
改名して名あげる
殺人事件があって幽霊屋敷と言われていた家で、家賃いらずの家だった。何年住まいしたか聞き忘れたが、あまりの淋しさに眠られぬ夜が何夜も続いたと言う。
毎日が他人の仕事現場の下働き。やがて芽が吹き、宮大工を目標に努力し、花の咲かない菊蔵を改名、喜久蔵で名を挙げた。神社仏閣専門に、遠く樺太までも建築の要請があり、東北から北海道全域まで宮大工、花輪巨匠の名は有名になった。
喜久蔵の遺産は、神社仏閣を百ケ寺建築した記念としての「花輪の別荘」で、其の名は三陸では知らぬ者がないくらいだ。
建物は華麗ではないが、百ケ寺の寺社の残材余材の結集で、何億円の費用をかけても集材の出来ないもの。ほとんどが北海道産の貴重な建築材である。
その頃、100トン以上の船は綾里の港に接岸出来なかったので、小船で港外で荷役して、海岸から人夫が1本1枚、材料を担ぎ上げたという。
専門の知識がないので説明不足だが、3尺廊下の1枚板は印象に残る。歴史が浅いが、室内工作建具等は精緻を極め、民家としては気仙大工の最高の技能を傾注したものと思う。
奥の座敷が仏間。やはり正面は阿弥陀如来像が安置され、規模は壮大ではないが、荘厳華麗な技工。色彩の美しさは実に見事なものだ。須弥壇左右の仏画も立派だ。なかでも6尺屏風が見事だ。6枚続きが1曲、2枚屏風3曲がたてに巡らし、これは年代物と拝見した。仏教語もわからないが、皆それぞれの御仏様の絵が一仏ごとに書いてあった。
花輪翁の一生一代の遺作の結集品ばかりで、三陸町の一つの文化財である。仏間も大谷石の蔵に保存の計画があったようだが、地震で蔵が破損して奥座敷に安置されている。
巨匠花輪翁も安養寺建立が最終の仕事で、昭和17年10月2日逝去された。その足跡は建築史上に残るものとなっている。