松の木は残った

本紙読者の熱い声援受け

連続投稿すると見る人も〝アキ″が来るから、少し休んだらどうだべ…とは我が家の家族の弁だ。心配りは承知の上だが、特に老年の同輩からは思い出の記となつかしい写真や忘れかけていた事など、とても楽しくて、切り抜いて綴り思い出してはまた見ますから昔の話を書き続けてけらっせんとの声援もある。

言われて見れば頼まれた気になり、ボケないうちは書き続けたいと思う。そのように物事に熱中することが自分なりの生きがいとボケ予防の一策であると思っている。そんな訳で、古いはなしをまた始めさせて戴きます。

入学の時、紅白の大きなモチ

早生まれの七つ入り(入学)。大正元年は、私の学問の第一歩で、祖父に手を引かれて天神山下の尋常小学校に入学した。頭のあまり良くない私は四月一日当日のお天気も、先生方の名前も顔も記憶にはないが、紅白の大きなモチを二つもらったことだけは七十年経った今でも忘れられないうれしい入学式だった。

高等小学校四年が桜場にあって、気仙郡ただ一つの高等科で、郡内の各町村から学生たちが来て下宿し勉学に励んだが、盛六郷内からは通学だが、九十九曲り、七曲り近村では有名な綾里峠の峻厳な道を片道五時間もかけて通学した努力型学生もあったと言う。その頃は新渡戸仙岳先生が校長であったようだ。

郡内一の立派な教育施設

校舎は二階建てで、大正の初め、約五十メートル位うしろに移転して新校舎三教室増築した。それに尋常小学校が移転併設されて「盛尋常高等小学校」となり、小学六年、高等科三年となり、郡内一の立派な教育の中心施設となり、高等科には当時、近郷近在から通学して来たものだった。

小学校への引っ越しは入学の直後で、各自の机と椅子は二人一組での運搬だ。男女二人掛けの三尺の長机と椅子だが、級では一番のチビだった自分の相手は、ひ弱そうな可愛い子ちゃんだったが、机に椅子を重ね、天神山下から郡役所の通りを抜けて浄願寺の田んぼの一尺位の所を、落とさないように彼女を労りながら何時聞かかったことか、休み休み運んだ。その苦労は昨日の事のように鮮明に思い出がよみがえる。

校長先生は向井伝太郎先生だった。そのころ農学校が開校して、私達同級生は最後の高等科三年卒業生となった。話はまた元に戻るがー

世の移り変りで消えた文化財

大正天皇ご即位記念館気仙物産館は、小学校の移り変りと同時代に上木町に設立された。県下随一の展示品が階上階下に所狭しと陳列され、県下内外からも見学と修学者が引きもきらず、入れかわり立ちかわり来館したが、世の移り変りと共に一つの文化財が消えて行った。その面影がこの写真です。盛小学校の石門は第一中学校に移設され、知る人達には、なつかしい門なはずだ。

物産館は地方事務所、土木事務所、郡町村長会事務所と変転して、思い出は稲子沢から移植した名木・赤松が残ったのである。