63年ぶり私の東京

JR・EEキップを利用して四十年ぶりに愚妻をお供に旅行した。たった三日間の短い日程だったが、初めて見る日光と、火防の神様として信仰の厚い古峰神社詣りと、長い間の念願であり六十三年ぶりのなつかしい東京を尋ね歩いてみたかったので、その時期も、私が初めて修行に出た桜のつぼみが開花直前の四月を選び、なるだけその思い出の実感を深めたいと心掛けた。

オイ宅で旅装とく

上野着の新幹線には、三男の出迎えで六十三年前と同様に、大正生まれの甥の家に旅装をといで夜の更けるまで話しが続くのだった。

翌日も春うららかな晴天、桜は満開となり、あらゆる花々も咲きはじめ、当時の十九歳の姿がまざまざと蘇るのだった。三男もまた来て、甥の車で四人揃って第二の故郷を訪ねに出掛けた。高層ビルもデパートも私には何の魅力も感じない。

私の修行中に大過なく見守って戴いた神様と恩師の面かげ、家族のことなど、休日に楽しく遊んだ場所とか、時々訪れては小遣いをもらった叔父・叔母が故人となった懐かしい場所と家等々が目に浮かぶ。その中には実に悲しみ深い所もある。

叔母の一人娘、春子は小学校六年生(当時)で、成績優秀、五年連続優等生の秀才。その上、色白の美人で、隣近所では評判の娘だった。両親は、この娘に大きな期待をかけたのだったが、その娘は道悪く腸チフスにかかり、板橋の病院に入院となった。

とんだ写真館

私は牛込の東五軒町の写真館に入門して三カ月目、具真の暑いある日のことである。実はそこの主人は写真師ではなかったのだ。本人は事業家であり、技師を雇っての経営であることに気づいた。話し合いをし.てもー向に解雇してくれないので、同僚と共に荷物をまとめ、日中、電車に乗り、巣鴨の叔母の所に逃げ帰ったのである。

叔母の家には誰もいなかった。春子の入院で、つきっきりで看病しているのだった。

叔父は建築の請負仕事で、家には大工職人が二人住み込んでいた。田茂山の叔父は巣鴨刑務所の看守でこの家に下宿していた。

それからが大変である。慣れない四人分の炊事、洗濯、病院に弁当を届けたりと、毎日テンテコ舞いである。昼、夜と交替勤務の叔父にも弁当を届ける。

中仙道板橋の昔の宿場町、滝の川通りを近回りして毎日、近藤勇の墓の前を通り合掌し、春子の病気回復を祈りながら、三キロの往復が七日間も続いた、春子の病は入院以来、悪化するばかり。そして幼い蕾は哀れ開花もせずに天逝したのである。叔母は看病疲れで倒れてしまった。そこの場所は、三十五歳の志士・近藤勇が板橋の刑場で露と消えた所、一人の姪の運命の灯が消えた所と、私には忘れられない場所となった。そしてその翌年の大正十四年、今回の旅行の案内役をした甥子が誕生したのであった。

私は別に近藤勇を崇拝している訳けではないが、あまりにも思い出が深いので、調布の道場と生家と街道の向かいの近藤神社とその胸像を拝観して、叔母と春子の冥福を祈る。

何もかもが…

四十年ぶりで訪れた板橋の墓は建て替えられたのか、変わっていた。近藤、土方、井上の三人の名が彫られていた。空襲で破損したのであろうか、以前は近藤勇の墓一名で、五、六本の松が植えられた小さな公園であった。驚いたことには、恩師宅も、お世話になった町内の隣の家々も元の面影はひとつも残っていない。その辺で事情を話して聞いても誰も知る人もいない。楽しかった神楽坂の賑わいも、毘沙門梯も鉄筋コンクリートに建て替えられ、浅草の観音様も仁王門も昔の物は何もない。

”私の東京”は心淋しい幻の東京と化し、二日目の予定は終わり、まるで浦島太郎の心境だ。

今夜は埼玉の三男の所に宿泊。買ったばかりで近代趣向の間取りの家だった。三男の五人家族に仲間入りし、老体をゆっくりと休養してEE切符の最終日とした。短期間ではあったが、おかげ様でわずらわしい切符買い替えの手数がなく、乗り放題で心良く旅行が出来たことを心から感謝申し上げます。JR様、ほんとうにありがとうございました。

私のバードウィーク

三寒四温を繰り返しながらの暖かな春の訪れ、我々老人にとっては待ちに待った季節の到来だ。草木の芽吹きのように生気が蘇えるような気分になる。それに桜が咲けば最高の春です。

今から心わくわく

四月十五日は私の 「バードウィーク」と決めている。一カ月早いのでは?と思うでしょうが、実はそうではなく、私の愛鳥〝メジロ〟を迎える日なのです。桜前線と共に冬鳥は北方に帰り、替わりに春鳥が南から入れ替わりに飛来する。今年は平年並みの気温との予報で、今月の十五日には、きっと渡って来るだろうと今から心わくわく楽しみに待っているのです。

私は子供の頃から鳥が好きで、ことさらに野鳥が大好きなのです。あらゆる小鳥を飼育してみたが、やはり〝メジロ″が気に入っている。濃緑の羽根と薄茶色の胸の羽毛。その名の通り真っ白な日の丸い輪かく。スズメよりは一回り小さいが、洞雲寺の林の梢から聞こえて来る囀(さえず)りは仲々の高音で、耳をすまして目を閉じ、しばし楽しむのである。

我が家は野鳥天国

野鳥は我が家に毎日遊びに来る。庭の石灯篭を餌台にして、パン層や残飯、果物の皮などを置くと、最初に飛んで来るのはスズメで、スズメが啄めば安心して何鳥でも真似して寄って来る。

毎年、四羽のヒナ

ヒヨドリは、〝メジロ″ と同じ甘党で、カキやナシ、リンゴが大好物のようである。

年中来るのはスズメとヒヨドリで、毎年初夏の頃営巣して、きまって四羽の雛を育て巣立って行く。スズメは毎日来るが、その他の鳥は野山に花が咲き実が成れば、しばらくの別れだが、どの鳥も思い出したように我が家の庭の木に来て囀る。

スズメの仲間にも、とても見ごとな声で囀る鳥がいる。口笛吹けば必ずどこで聞くのか飛んで来るが、実に可愛いものだ。この写真は我が家の野鳥です。スズメの写真は、全部レンズの方に向かせるのに二時間ぐらい辛抱してやっと撮影した苦心の作です。

鳥の集まる所には、何鳥でも集まって来るが、ある日、何を勘違いしたのか、夜も明けやらぬ早朝の暗がりに名も知らぬ、カーナス程の鳥が、刈り込み仕立ての葉陰に止まっているのが見えた。急いでカメラを持ち出してピントを合わせたが、何しろ暗いので絞りを開放にして手持ち一秒露出で二コマ掘影したら飛び立ってしまった。早速NHKに送って鑑定してもらったら、夜行性の鳥で〝ゴイサギ〟と解った。やっぱりカメラぶれしたのが残念だった。

小さな命大切に

スズメは田や畑を荒らし、ヒヨドリは果樹園を荒らすと、世間からは嫌われものだが、鳥の生活も他の動物同様に、餌の半分以上は昆虫です。これ等の駆除に一生懸命働いて人間に貢献していると思うのです。小さな生命を守ってやりましょう。大事な餌に農薬を散布されてか、このところ野鳥の減少は甚だしく、四十年前の十分の一ぐらいになったと田いう。

激減する小鳥たち

私の愛鳥〝メジロ″もー沢、一峰に二十羽ぐらいが一群となって春から晩秋まで毎日休みなく働き、害虫類を駆除してくれる。

小鳥の子育て(餌)は、昆虫類が主です。

林業関係の人たちは、松くい虫の駆除、防除に一生懸命のようですが、虫取り専門の小鳥の激減については考えないのでしょうか。

愛鳥週間を前に愚考申し上げて甚だ失礼に存じますが、観察会の方も、小鳥を怖がらせずに楽しくまた、保護観察の方も小鳥に代わってよろしくお願い申し上げます。

気仙郡役所について

高田と誘致合戦

大正十年、盛高等小学校第三学年。その春は高等三年は私等が最後の卒業生だった。それと同時に盛農学校が創設開校された。同級生三人が郡役所、私等二人は盛町役場に勤務することになった。

郡役所所長は、下斗米末蔵郡長であった。

役場には何か色々な事情があったらしく、刈谷友治町長はじめ助役、収入役が総辞職された。悪いことは続くもので、書記の一人が病魔で逝去されたりで、役場内は空洞だった。

それで、郡長推薦で臨時・代理に千葉周治郎町長、助役には猿川さんという盛岡から来られた白髪の人だったことが思い出される。役場の隣りは村社の社務所で、翌年は前庭に建っていた蚕糸飼育所に移転した。

神社の参道を挟んで、向かいは郡役所の大きな事務所だった。平屋で木葉葺(こばぶ)き屋根だが、立派な建物であった。南に面して廊下が回され、東の室は郡長室で、酉の神社の下には土間があって炊事場と宿直室があった。前庭には左に白い門と柵が巡らしてある。

その後、町役場、市役所、気仙郡役所の建設…と続く。これ等の誘致には、.高田との競争があり、結局は郡の中央という地の利と、鈴木喜三郎(ヤマキ)市長の祖父等、有力な地元民の働きが大きく、誘致に漕ぎつけたこと等を古老から聞かされたものだ。

ここで忘れてならないのは、建築に使用されたあの太い角材、棟木、張り材、総杉材は唐丹村大石の屋号〝わがだ″(下船渡上野冷蔵・故人となられた上野与治作氏)御尊父様が全部寄付されて応援したものだそうだ。

百年の歴史と共に、解体され消えゆく文化財を惜しみながら思い出の写真を添えて稿を終わります。

宮様の一周忌に

昨年の早春は悲しみの春であった。誰にでも気さくで庶民的で親しみの持てる宮様がご逝去なされたからである。二月十日は一億万民から哀悼の意が寄せられ、豊嶋霊園での御葬儀の様子等、テレビ放送にじっと見入った悲しみの日であった。

18年前の夏

あれから早や一周忌を迎えられた。二度目に気仙にお出でになられた時のお元気な殿下のお姿が思い出され、皆さんにも懐かしい写真をお見せして共に追悼致したいと思います。

今から十八年前の夏だった。晴天続きで暑い八月のある日に、大船渡グランドホテルの御用命で、高松宮様の記念撮影のお電話がかかって来た。身に余る光栄で感謝の気持ちでいっぱいでした。

宮様からの二言は私には生まれて初めて、後にも先にも忘れ得ぬことで、今でも私の耳の奥深く刻みこまれています。

撮影にご指示

宮様との記念撮影は、千田知事、鈴木八五平県議以下随行の人達、市・町長と関係者を撮影し、次に県関係者、橋爪市長個人と、一応記念写真の撮影も終わり、機材はケースに納めた。

その後、たしか奉仕でお茶の係をしていた市婦人会の人達とグランドホテルの女の従業員さん達がぞろぞろ出て来て、急いで宮様との撮影を、と注文が来た。私も時間が制約されていると思って、ついスーパーセミカメラを向けたのでした。

宮様は撮影中も、とても気さくに誰にでも気軽に声をかけられ、気苦労をかけないようにご好意を示される。そこで宮様が私にひと言。

「君、君時間は大丈夫だから〝チッコイカメラ″ ではだめだから、大きいカメラで撮影するように…」と御指示なされだのです。甚だ恐縮の至りで、早速、組み立て暗箱に三脚をつけて、撮影が無事に終わったのでした。

 

三陸大津波のこと

あられまじりの朝

毎年迎える桃の節句の雛祭り。昭和8年の3月3日は忘れられない 「三陸大津波」の記念日となった。あられまじりの小雪が降った寒い早朝に、消防団員に出動命令が発令された。昨夜の大地震で津波襲来の報道と、救難活動の指令。各分団は大船渡方面と赤崎方面とに手分けして被災現場に向かった。

すでに悪魔の水は暴れ終わって引き揚げたばかりで、地の森から欠の下、茶屋前までが海底から押し上げられた真っ黒な泥、泥、泥で埋まってしまった。下船渡までは流失した家屋は幸いになかったが、倒壊した家の下敷きになり幼児を背負った、若い母子が津波の犠牲者となった。大船渡での唯一件の死亡者だった。

後世の参考のために申し上げますが、この人は一度、高台に非難したが、寒さが厳しく耐えがたく、止めるのも開かず、ねんねこを取りに我が家に戻ったその瞬時が運命の別れ目となってしまったのだ。良くある事だが、いったん非難したら、必ず事がおさまるまでは独断では行動しないことだ。

遺体の列に涙

船河原部落は二十数戸が流失し、溺死者は最も多く20人。この遺体が丸森海岸にずらっと並び、線香の煙がたちこもり人々の涙をさそったのでした。大波を真っ向にかぶったその船河原も1年後には鉄道の高い堤防が築かれた。細浦に来た時は、ただただ驚くばかりだった。ほんとうに何もないのだ。人命の犠牲こそないものの、家も船も何もない。ほんとうに全滅なのだ。

連日、被災地撮影

三日付東海新報津波記事報道の写真は私が当日撮影したものだが、ほんとうにあの通りだった。鳶押し担いで消防団員も現場まで来たものの、何も手のつけようがない。正午は過ぎた。急いで引き返し、取枠全部、乾板を入れ替え、自分の任務についた。この惨状は後世に記録し、残すべきものと津波の恐ろしさを伝えるのは俺の任務と決心して、毎日毎日、被災地撮影に歩いた。

当時はカメラもフィルムもあまり進歩していなくて、暗函機械にカビネの乾板を一打入れるとかなりの重量となる。大船渡2個所、細浦2個所、赤崎3個所と、被害の甚大な所を重点に撮り始めた。乾板が大量に持てない事と持参しても交換に困るので制限がある。

農林大臣一行

翌日、農林大臣が広田に災害視察に来られると聞き、早朝、広田泊港に行った。脇の沢あたりから小型の発動機船で港に到着したが、海上からの視察なので、被害の意外に少なかった泊だけを見て上陸はしなかった。2、30分位で高田方面に引き返した。やっとのことで其の一行を撮影することができた。

原版大切に

その後、被害甚大な細浦、赤崎、全滅の綾里港と越喜来、唐丹は素通りして下閉伊方面に行かれたらしい。4日目は綾里峠の九十九曲を往復して3個所、5日目は、日本赤十字の救護班の車で崎浜に同行させて戴き、おかげ様で越喜来3個所を撮影することが出来たが、とても唐丹までは不便で歩けなかった。撮影した写真は津波記録誌やらテレビ放映等に有効に利用している。

あれから早や55年。原版は大切に保存している。

 

思い出の記

犬のおまま

育ちのせいか、ついつい話が食べ物のことばかりで恐縮に存じますが、まず聞いでけろでば。天下広しとかだっても人間が犬のおまま(飯)を見てヨダレ流したのは自慢でないが俺ぐれあのもんだべ。あんまりほめだ事でねあども…。

祖父の博楽は私が七歳の頃に逝かれた。三代目も獣医だった。

祖父の博楽は私が七歳の頃に逝かれた。三代目も獣医だった。
その頃、形屋敷・旅人宿(旧盛・警察署隣り)に東京から毎年、狩猟に来るお客様が宿泊していた。真っ白なセントバーナードに似た愛犬を連れて来ていたが、その年その犬が妊娠していて、お産が間近かなため連れて帰ることが出来ない。そこで産後の日だちまでの間、犬の飼育を頼まれた。

犬の名は〝トム″と言った。獣医師の祖父は警察犬の獣医も任命されていて、時折り警察署にも出向いていた。隣りの形屋敷の誠さんとは将棋友達で、ちょいちょい寄る。そんな訳で犬の飼育を引き受けたのである。

たしか当時の料金で一ヶ月拾円也と聞いたが…。その犬は白米でなければ食わない。牛肉、豚肉、それに卵と牛乳がなければならない。そのころ盛町ではカデ飯、麦飯、三穀飯、一汁一菜、常に大根茎のざく漬けだ。白いご飯がたべられるのはお盆とお正月、冠婚葬祭だけだ。

毎日2食のお犬様の食べ物を見つめているのだった。なにしろ7歳の幼児である。日本男児とおだてられても毎日喉が鳴るのである。自然にヨダレが流れてくる。我慢に我慢を重ね、奮励努力しても日露戦争直後に生まれた私も、口に入らぬ不満から、自然にどこかで口走るのであった。〝犬のおまま食いたい″…と。

それがあたり近所でも噂となり俺の顔を見ると〝犬のおまま″が来たと評判になったものであった。

五葉登山

毎年、市が主催の「五葉山山開き」に参加した。故・鈴木房之助市長の時代だ。市長も娘さんを連れて参加された。赤坂峠まではバスでの送迎だ。五葉山には10回以上も登ったが、歩いて登るには大沢口からの方が近道であった。バスで登ったのは初めてだった。

赤坂峠では山の安全の祈願祭が終わり、お神酒が全員につがれた。市役所の若い職員たちも男女14人位で登った。一同は畳石で小休止して、ひと汗ふいた。若い連中は頂上目指して、さっさと登って行った。残ったのは市長さんと俺ばかりだ。市長さんはもうダウンしてしまった。とてもだめだから登頂を断念して下山すると言うのだ。

そこで俺の登山やハイキングの秘訣を話して聞かせた。牛も十里、馬も十里の諺もあるが、俺の秘訣は牛の十里だ。登り坂では、のったらのったらと絶対に急がないこと、疲れていなくとも絶対に急がず、そうかといってまた休んでもいけない。

若い人達より30分~1時間位遅れる程度に注意しながら登って行った。俺のアドバイスが市長さんの登る気持ちをかきたてたのか、娘さんと共にまた登り出した。途中で休みませんか?と聞いたら大丈夫だ、この調子ならなんぼでも歩けるとのこと。初めての五葉山、どんなに嬉しかったことか。帰宅してからどっさり酒粕を戴いた。

翌年の初夏に盛駅前の通りではるか遠くから市長さんが手を上げて高い声で呼び止めた。佐藤君、今年もあの要領で五葉さ登ったでば…と。

思い出の発見

ある夏の夜の思い出

カフェーが雨後のタケノコのように開店が盛んで、町には、すみれ、やよい、白菊、いろは、街のクラブ、と華やかなりし頃、女給たちは夜の花とか言われ、和服に白い短いエプロン、背にはタスキを大きな蝶に結び、まるでザクロがはぜたように口紅を真っ赤に塗り、手回しの蓄音機が1台置いてあって、擦りへったレコードが自称〝遊治郎″どもを誘うのだった。

電気蓄音機でスピーカーを鳴らしたのが、町では私が最初で、お祭屋台に取りつけ、踊りに音楽を流したのは桜場組が初めてだった。電源は当時、電気を配線している家は何軒もなかった。調べてみて、ソケットを差し込み電線を二通り準備して配線し、電気を送つてもらった。商店の皆様には快く御協力して戴き、あれから50年経った今でも感謝している。

題目の〝思い出の発見″を忘れた訳ではない。その当時の情景を言わなければ話がぴったりしないので、前書きが長ったらしくなるが、もう少し。その頃の流行のことば、飲食店や、カフェーに飲みに行くことを〝発展″したと言った。夜通し飲むと朝露を踏む…と言った。この朝露には私が重要な責任を負わねばならなかった。

東京で不運にも修業半ばに脚気にかかって、やむなく帰郷した。病気で帰って来たのに同級生の親しい連中から、同級会だからと招待を受けた。むくんだ足を引きずりながら、脚気のことは忘れ、酒を飲み続けた。夏の夜は夜明けが早い。たちまち夜が明けてしまった。心配して寝つかれない両親には面目ない。酔いを覚まさねば帰られない。

いろはを出て-

そこで考えた。昔から脚気の療法は早朝、草っ原に出て朝露を踏むのがもっとも効果があると言われた。ほろ酔い気げんで川原に行った。草履をぬいで裸足になった。なる程、気分が良い。川風受けて涼しくなり酔いも覚めたので裸足のまま家に入った。

見ての通り朝露を踏んで来たのである。以来、しばらくの間、悪友どもに、〝飲んで朝帰り、朝露踏むと…″とひやかされた。

さて、夏の夜の事件だが、ある晩、カフェー・いろはに行った。常連2、3人の先客がいた。女給相手にビールを3本あけた。夜が更けて12時頃となり、カフェーを出た。ハシゴはめったにしない方だ。友達でもいれば別だが。ほてった顔に夜風がさわやかだった。街は寝しずまり静かな夜だった。自分の家まであと5、60メートルの所に来た時である。見たところ佐々木医院の中央付近から垂直に50メートル位上空に火の柱があがっている。風がないので火の粉が真下にパラパラ落ちている。

ただ一度の火災発見

盛消防組三等消防を命ぜられ、三分団員新米ほやほやの自分が後にも先にもただ一度の火災発見だ。火の手を確かめ、桜場方向に火事だ火事だと三度程、声をかぎりに叫びながら、勝手知ったる駅前の三分団の屯所に駆けつけた。単衣の着物は上半身裸になり、財布とたばこは両挟で結び、屯所の扉を開け腕用ポンプを引き出した。

舵棒は左右二人で引くのだが自分一人だ。履物はフェルトの草履で足がすべる。

現在のように舗装道路ではない。石ころのデコボコ迫だ。汗は滝のように流れる。応接はまだ見えない。やっと「今喜」の前まで来た時、一番先に来てくれたのが忘れもしない 〝カフェー・街のクラブ”の山田秋声さんだった。ところが、引いてくれればいいのにポンプを後ろから押された。疲れ果てているのに押されたものだから、前にツンノメリそうになった。

ようやく現場近くまで行くとあたり近所の人達が皆応援に出て来た。バケツを持ってかけつける人もある。火災現場は佐々木医院と見たら、三軒隣りの石長屋の裏だった。その家の前にようやくポンプをおろした。今度は水がない。何人かが、寓兵衛様前から引いてくれた。あわてたつもりもないが吸管と放水管の位置が反対だ。半回転してどうやら吸管は取りつけたが、何んたる手落ちであろう。放水管が一本も準備していないのだ。、 再度、屯所にかけ戻り運搬車を引き出し、やっと放水ができた。幸いにも、その時刻は無風状態で物置き小屋一つで消しとめることができた。夏の夜は白んできた。俺は疲れ果てて、ぶっ倒れた。今度は誰一人、自分を見てくれる者もいなかった。

消防団幹部は、なんだそのざま、消防団員でありながら団の服装も着けず、帽子もかぶらず、消防の資格がないと、罵声と悪口だ。疲労のため寝たふりをして聞いていた。とんだ物を発見したもんだ。俺が服装を着けに行くひまがあったか。服装をとりに行っていたら火事は延焼していたであろう。火事が鎮火すれば、それでいいのでは…と分団長に食ってかかった。被害を最小限に食いとめたあげくに悪口雑言だ。これが大家の御曹司か、知名人の子息ならば大さわぎして、上申の手続きをし、表彰か功績章は戴けるだろうにと、貧乏人の〝遊治郎″はひがむのであった。

変な疑惑を呼ぶ

その後がまた大変なことになった。火災発見が早過ぎたのと消火の準備があまりにも万全な動作だったのが疑惑の原因となったようだ。当時の刑事は毎日毎日我が家を訪れ、くどくどと同じことを繰り返し質問するのだった。あきれたもんだ、なんの表彰どころか、不審火のため、原因も犯人もわからない。第一発見者の俺が、まるで犯人扱いだ。

一週間も通われては仕事にならない。考えて見れば馬鹿らしい話だ。その後五十年間、幸いつまらぬ発見はない。

今は、犬・猫を車で轢いて病院に運んでも美談と報道される世の中、これが有り難い世の中なのだろうか。

終わりに一言。まだまだ沢山の話が続くのだが、皆さんも身近な出来事、昔話等を話し合って後世に伝えようではありませんか。楽しい話、嬉しい話を残して下さった先輩、友人は皆故人となられた。感謝と御冥福をお祈り申し上げます。

 

 

「医療の話」

運河を築港

荒涼としたオホーツク海と、大船渡湾より広い能取湖、海に出入りの出来ない湖を船が通れるように運河を築港するのが私達挺身隊の任務だった。岩手隊三宅隊長以下10人、20年の6月12日、現地に向かって出発した。

函館本線小樽にて下車、翌日早朝、湧もう線二見が岡駅着。そこから西へ4里。美岬の砂浜が常呂まで4里の長い沿岸だ。そこには三角兵舎が二棟、調理場と風呂場が二棟建っていた。背後が国有林で雑木とトド松の原生林だ。冬の寒さはさぞ厳しいだろうと思ったが夏場のアブと蚊の多いのにも驚いた。それに大きな蛇も沢山いる。また野鳥も多く、砂浜では、揚げ雲雀。

宿舎の前は湿原で、6月頃になるとアヤメ、カキツバタ、名も知らぬ花が一面に咲き乱れ、淋しいながらも、まさに娯楽浄土だ。波は静かで3軒だけの農家は農業が本職だが、馬も5、6頭飼っていて、一日中野放しだ。10メートルの建て網で鮭や鱒をとってきては売ってくれる。我々も幸いに釣竿を持って行ったので砂浜からエビのような虫をとってきて餌にし釣ってみたら1時間位の休み時間で一尺位のウグイが20匹も釣れた。

工場現場の湖では湖口に一尺位の牡蠣が無数についている。潮の干満をみて取りに行く。一株あげると10個もついている。牡蠣もウグイも塩ふりして焼いて食べてみたが、あまり美味しくはなかった。内地物と比べると、まるっきり味が落ちる。

山菜の林

毎日の作業は土木工事と、それに原始林のトド松の伐採が主で、時々、調理炊飯係から山菜とりと、供出用のイタドリ刈りをたのまれることがある。なにしろ山菜だってイタドリだって一個所で刈り取ることができるのだ。一山がゼンマイの山である。

まるで山菜の林のようである。よく見るとウドが、ニンジン程の太さになって、白根が一尺もあるのだ。

作業が終わると風呂を浴びて夕食となるが、北の果ては日が長い。内地では考えも及ばない。午後七時を過ぎてもまだ日が照っている。その年は冷害のためかなり被害があった年で寒さも厳しかった。西に日が傾いたと思ったら、真夏なのにストーブに火を入れる家庭がほとんどだった。夜ともなれば電話もなければラジオもない。

時々来るのが空襲警報だ。岩手隊、福島隊、茨城隊で毎晩のように賭博が開帳されるのである。

白頭山節

岩手隊は真面目であった。隊長の三宅さんが、仲間の宴席でも今まで唄一つうたったことがないので何か覚えて帰りたいが、佐藤君お願いだから一つ指南を頼むと来たもんだ。〝ヨウガス″と、その道できたえた〝ウヌボレ″で引き受けたのである。さて、何がよがんべとなった。民謡、小唄、端唄なら大抵の唄は身についている。相談の結果「白頭山節」と決定した。初めての人にはむずかしいとは思ったが、本人の望むことなれば是非もない。それから毎晩白頭お山に積もりし雪は…と三カ月程やったが、まもなく終戦となったのである。

その間、岩手隊には免許皆伝の揉治療師・菅野宮松先生が入隊した。世田米から入隊した。毎晩、かわるがわる背中や腰の揉治療の特別奉仕である。時折り治療の話が出る。医者に見放された病人を全治させた話やら診断のことなど。病気は診察が第一で胆石症は咳が出るし、痰も出る等々の話から診断を下すのだなと感じた。

 

芭せを(しょう)の句碑

大正期の天神山

町民の憩の場所『天神山』に樹齢数百年の山桜の巨木の根元に芭蕉の句碑が配置されてあった。その懐かしい『天神山』は、大正時代までは僅か100坪ぐらいの平らな所に芝草が生えていた。周囲は段々の荒畑だったが、老杉の聳える北側には松を配置して北西の風を遮切り、春ともなれば花見の宴席となる数々の思い出が偲ばれる。

やがて県下随一の大忠魂碑が建設された。当時、盛町の村社は、中殿の老杉の茂みにあったが、やがて真上の高台に移転された。戦後、現在の場所に3度目の遷宮となった。

神殿の改築には、壮年団も力添えして当たり、鈴木房之助氏が全力傾注し、盛町に面して東向きの社殿に建築するのと相談がまとまりそうだったが、神社は南面が多いと、社殿の地形上、前庭が広くなり、大勢の参詣の場として好都合だとの私の構想が認められ、忠魂碑移転と決定しているが、東海新報の〝文学碑散歩〟を読む度に心はせきたてられる。元の碑の文体を基調に、市内の書家に一筆おねがいして協力を求め、石材店に見積書も書いてもらった。あとは自然石の原石の選定だけ…。

私の提言

これは私のまったくの独走なのだが、よく考えてみれば、これは私のやるべき事なのか、誰かがやらなばならないのか、それとも全くやる必要がないのか迷うのです。私は地元盛町の皆様の協力が第一だと思うのだが、いかがでしょうか。

句碑の再建に構想なり、ご意見ご指導など、愚考えの批判でも結構です。ぜひお聞きしたいと思いますので、よろしく御教示下さるようお待ち申し上げます。

〝がんばれ開発鉄道″

『三陸沿岸リゾートエリア』を設定、重点七地区。大船渡市と陸前高田市を母都市にと、昨年12月4日の東海新報紙上にて報道された。それを読んだ一市民として眠れる者に夢見る思い、歳末の慌ただしいなかの朗報で、沈滞していた町おこしに活力を与えられた嬉しい知らせだ。63年新春は、ほんとうに目出度い年になるよう心からお祈り申し上げます。

廃止、寝耳に水

その矢先き、12月26日付に 『昭和25年開業の開発鉄道盛-石橋間9.5キロ赤字決算脱却狙う旅客部門の廃止』 と報ぜられた。この寝耳に水の記事を読んでがっかりしたのは私一人だけではないと思う。特に地元、日頃市町民は片足もがれたような打撃を受けたことであろう。四季の変り目に利用している者として廃止ということは、発展に逆行しているようで実に心がが痛む。

三千有余に信者を抱える東北一の大寺院「長安寺」、県立公園の霊峰「五葉山」と山麓の牧場、それに山菜の宝庫、清流は釣りのメッカ…と数えきれない憩いの場、やすらぎを求めて登山する人。この人たちのためにも開発鉄道は大事な交通機関となっているように思う。

先日の東海新報には建設省が手づくり郷土賞の募集を始めたという記事があったが、開発鉄道沿線は自然の大景観と、やがて鷹生ダムが完成すれば、市の観光、手づくりの名所が出来るであろう。それなのに旅客部門廃止とは誠に残念なことである。

改善策・私案

そこで廃止の前に一考を。以前〝日本一乗車賃の安い鉄道″として放送局に投稿した事があったが、なるほどいつ乗って見ても客がまばらで、よく経営が成り立つものだと乗るたび思ったものだ。それが累積赤字なっては会社も苦しいだろうとお察し申し上げます。そこで私の苦言を申し述べます。

成り立つものだと乗るたび思ったものだ。それが累積赤字なっては会社も苦しいだろうとお察し申し上げます。そこで私の苦言を申し述べます。

第一に乗車に不便であること。JRと三陸鉄道の乗り換えが出来ない。ぐるっと三百メートルも迂回して踏切を渡って駅舎では、今の人たちは荷物など持って歩く事は苦手だと思う。そこでどうでしょう。三鉄ホームに乗り入れ出来ないものか?出来なければ客車部門だけ三鉄に委託したらどうだろうか。三陸発日頃市行、JR大船渡駅発長安寺行(盛と大船渡地区には長安寺檀家の半数以上を占めている)など交渉し、旅客の増加に努めたらいくらかでも増収になるのではなかろうか。

第二には赤崎町佐野付近に停留所の設置を必要としないだろうか。三陸町では、わずか二、三十戸の小石浜にも駅が新設されたが、上三区も都市計画が完成すれば四、五百戸の住宅と、中・小工場が誘致されるであろう。そこに住む人たちは駅に出て来るには大変不便を感じていることと思う。

佐野に駅を設置し、開発鉄道の客車を佐野まで延長したら、かなりの住民が利用するのではなかろうか。

大事な誘客宣伝

第三には、バスのように沿線部落に停車する停留所を設置したらどうだろうか。猪川発で千刈、久名畑、板用、川内、坂本沢、田代屋敷等に停留したら地元民は大船渡線と三陸方面に出掛けるのと、買物や病院等に通うのにもどんなに便利だろうか。

第四は、誘客宣伝ということも大事ではなかろうか。学校の低学年児童のミニ遠足等にも利用したら…我が家の孫も幼い時には、ちょいちょい終着駅まで往復したものだ。ちょっとした食べ物とおやつをリュックに入れて、広い車内での見知らぬ人との出会い、車窓からの変化してゆく風景を眺める、その顔のうれしそうな事。それは何にもかえがたい自然に親しむ情操の教育の一つと思う。

我が家の孫たちも中学、高校へと進学したが、今でも時々、「爺ちゃん開発鉄道で、日頃市さあばいや (連れてって)」と、思い出しては時折りせがむことがある。子供は乗物が大好きなのだ。

話はちょっと横道にそれたが、三鉄盛駅乗り入れが先決問題で利用客の身になってみて、廃止以前に何か打つ手があるように思われる。私のような老体が心配しても、それ以上のお考えがあって協議されていることと推察するが…。

『リゾートエリア』とは、想像もつかない程大規模な構想計画のようで、当市は上閉伊内陸部とも接近、連携を持つことは必至で開発鉄道も重要な役割を担う時が目前に迫っているように思われる。石橋駅から六郎峠をトンネルで抜ければ四キロぐらいで上有住駅に連絡出来るだろう。廃止などとは、とんでもない事だと思う。

起工から開業、二十周年の記念アルバム等の製作までお世話になってきた者として、何か役に立ちたい気持ちで、つまらない愚見を申し述べました。

終わりに、開発鉄道の皆さん労使一体となってがんばって下さい。