柿とイチジク

あちこちから柿の話が聞こえて来た。昨年は豊作だったが、今年は冷害をまともに受けて農家はがっかりしているようだ。暴力は追放できるが自然の猛威は手の打ちようがなく、春からの努力も、農作物の被害も甚大だ。農家の皆さんに慰めの言葉も出ない。

須川旅行の道中、車窓からの観察だと、沿岸と川筋の柿の結実はほとんど皆無に等しいが、陸前高田市の矢作町は平年作を保持したようだ。

大船渡市内でも盛川筋は三分作にも満たないようだ。昨年お伺いしてお世話になった小通の新沼一さんに電話して柿の作柄をお開きしたら、小通部落はまずまずの実なりとのことで、他人ごとながら安堵の思いだ。

淋しい柿の木

「春来る鬼」の映画の撮影が最終とのことで、三陸町観光協会の依頼で記念撮影に行く途中、赤崎と綾里間の道すがら眺めたが、沿道からみる限り、柿の木の淋しさが目についた。甚だしいのは、、皆無の木もあり、海岸地方だけ冷害が著しいようだ。日照と、ヤマセの関係が収穫の有無を左右するようで、今年のような異常気象では植樹する際などは地域の地形等も考えなければならない。

行っては見ないからわからないが、北東風の吹き込まない三陸町吉浜大野部落は平年作に近い収穫が得られるだろうと思う。釜石では柿市の報道も開いたが、釜石の甲子と矢作の地形は南面の土地で、ヤマセの被害を最小限にくいとめる共通の所のように思う。

専門家でもないのに、見た目そのままに書くので参考にもなるまいが、私の大事な一本の柿の木は今年豊作で、昨年よりも実なりがよいようだ。全部枝まで折り取って、努定を兼ね軒下に吊し、熟し柿にしてお正月から春まで楽しむことにする。

やっとイチジクの話になるが、私のちょっとしたアドバイスをー。

イチジクの巨木

我が家には二十年になる柿と並んで、イチジクの巨木がある。今年の冷害も知らぬ顔で豊作であった。毎年、十貫匁ぐらいはなる。家にある木は何の種類なのか、実はリンゴぐらいの大きさになる。味もよく、隣近所にも分けてあげて喜んでもらっている。

収穫時期は柿よりひと足早く、初秋から晩秋まで熟した分だけをもぎ取る。惜しいかな長期保存ができない。生食を好む人も多いが、私は砂糖(ザラメ)でジャムを作るように煮つめて食べる。アメ色になるまで時間をかけて気ながに弱火で煮つめるのだが、必ず最初から煮あがるまでは水を入れてはならない。

栽培の方法

次に栽培方法だが、樹型が横にとび出るので土地が無駄になり、下草が日陰になり農家には嫌われものの一つだが、植えつけてから直幹に仕立て二メートル以上で枝を張らせるが、南面の枝は木の下の日照を妨げるので早いうちに剪定すること。撃定をすると根元からも蘖(ひこばえ)がどんどん出るので、これもきること。生長の早いものなので苗木は挿し木で百発百中発根する。

種類をよく見分けて植えつけると、三年ぐらいで結実する。以前にイチジクを植えた場所には必ず植えてはいけない。以前の根を完全に掘り除かなければ新苗の生育が悪いのだ。乾燥地を適地として畑の角や傾はん、薮などの利用で植樹をお奨めしたい。

近年は市場に並べられ販売されるようにもなったようで、農家の方の雑収入の一つにと思うのです。柿と同様に充分に肥料をやれば毎年、多収穫が望めます。春になったら剪定枝を差しあげます。ご希望の方はどうぞおい出下さい。

松の木は残った

本紙読者の熱い声援受け

連続投稿すると見る人も〝アキ″が来るから、少し休んだらどうだべ…とは我が家の家族の弁だ。心配りは承知の上だが、特に老年の同輩からは思い出の記となつかしい写真や忘れかけていた事など、とても楽しくて、切り抜いて綴り思い出してはまた見ますから昔の話を書き続けてけらっせんとの声援もある。

言われて見れば頼まれた気になり、ボケないうちは書き続けたいと思う。そのように物事に熱中することが自分なりの生きがいとボケ予防の一策であると思っている。そんな訳で、古いはなしをまた始めさせて戴きます。

入学の時、紅白の大きなモチ

早生まれの七つ入り(入学)。大正元年は、私の学問の第一歩で、祖父に手を引かれて天神山下の尋常小学校に入学した。頭のあまり良くない私は四月一日当日のお天気も、先生方の名前も顔も記憶にはないが、紅白の大きなモチを二つもらったことだけは七十年経った今でも忘れられないうれしい入学式だった。

高等小学校四年が桜場にあって、気仙郡ただ一つの高等科で、郡内の各町村から学生たちが来て下宿し勉学に励んだが、盛六郷内からは通学だが、九十九曲り、七曲り近村では有名な綾里峠の峻厳な道を片道五時間もかけて通学した努力型学生もあったと言う。その頃は新渡戸仙岳先生が校長であったようだ。

郡内一の立派な教育施設

校舎は二階建てで、大正の初め、約五十メートル位うしろに移転して新校舎三教室増築した。それに尋常小学校が移転併設されて「盛尋常高等小学校」となり、小学六年、高等科三年となり、郡内一の立派な教育の中心施設となり、高等科には当時、近郷近在から通学して来たものだった。

小学校への引っ越しは入学の直後で、各自の机と椅子は二人一組での運搬だ。男女二人掛けの三尺の長机と椅子だが、級では一番のチビだった自分の相手は、ひ弱そうな可愛い子ちゃんだったが、机に椅子を重ね、天神山下から郡役所の通りを抜けて浄願寺の田んぼの一尺位の所を、落とさないように彼女を労りながら何時聞かかったことか、休み休み運んだ。その苦労は昨日の事のように鮮明に思い出がよみがえる。

校長先生は向井伝太郎先生だった。そのころ農学校が開校して、私達同級生は最後の高等科三年卒業生となった。話はまた元に戻るがー

世の移り変りで消えた文化財

大正天皇ご即位記念館気仙物産館は、小学校の移り変りと同時代に上木町に設立された。県下随一の展示品が階上階下に所狭しと陳列され、県下内外からも見学と修学者が引きもきらず、入れかわり立ちかわり来館したが、世の移り変りと共に一つの文化財が消えて行った。その面影がこの写真です。盛小学校の石門は第一中学校に移設され、知る人達には、なつかしい門なはずだ。

物産館は地方事務所、土木事務所、郡町村長会事務所と変転して、思い出は稲子沢から移植した名木・赤松が残ったのである。

「春来る鬼」を訪ねて

お不動様に惹かれて、今年は春から五度も参詣の幸運に恵まれた。一つには 「春来る鬼」の映画撮影に好奇心を抱いてのお参り。また三陸リゾートエリアの構想を胸に抱いて、頼まれもしない愚か者の計画設定と空想を夢みる楽しさで、老境にかばねもやまず駆け巡る。カメラを抱えて方々の、世に知られない事物を探し訪ねる。この心境は他人にはわからない。生き甲斐を独り占めにかみしめる喜びである。

退屈な人は見て

ウヌ惚れとカサッケのない者はない…と諺にもあるが、私はそんな気持ちはさらさらない。長命とポケの予防の妙薬につとめている。そこで私の悪い癖が出て来るのである。毒にも薬にもならない、腹も立たない笑いばなし退屈な人は見てけらっせん。

先頃、「野形のお不動様」の題名で本紙に投稿したが、「豊年万作」の唄より反響がなかったようだ。三陸町観光協会にも同文コピーを送りましたが何の音沙汰もない。音沙汰があろうがなかろうがよいのです。私の書いているのは夢を書いているのです。重要な参考資料などではありません。

立派なセット

映画の撮影セットをみて、まず感じたのは、バラックのあばら屋かと思っていたが、行ってみて、まずまずたんまげてしまい、立派な構造建築に目を見張るようだった。

ここが映画となって日本全国、いや世界各地で上映されることを思えば胸がワクワクする。

このセットもやがて解体されるのかと思えば無念さが心をよぎる。私の構想が次々と追い打ちをかける。この広壮豪壮な設計と、門柱などは高々と太い材料で、昔のお城の扉を思わせる頑丈な本物の金具で構えも立派だ。裏側を補修して利用すれば、観光「春来る鬼の家」として充分、お客様を吸収できると思う。

十月二十四日、一ノ関より西へ八里、栗駒ケ岳、須川温泉に紅葉を訪ね、温泉に惹かれて日帰りでマイカーの旅に行ったが、来る人々と車の多さにはおどろいた。ただ山を見るだけなら三陸沿岸にだって雄大な絶景がたくさんあるが、残念ながら北上山系には火山脈が通っていない。

私の願い

温泉のある観光地には及ばないが、名水・不動滝の湯では売れないだろうか。

〝鬼の家″と〝不動滝の湯〟を宣伝してリゾートの一つにし、セットは解体する前に小林旭監督からそのまま払い下げが出来ないものかと思う。まだまだ構想は飛躍するが、このチャンスを見逃すことはないと思うのだが…。

先年は、水谷豊主演のテレビ「天城山殺人事件」で当市の名刺「洞雲寺」「長安寺」等でロケーションがあったが、三陸地方の文化財も最近、中央から注目されだした。察するに、映画撮影の重要な条件は、近代的な建造物や電柱電線ー本でもあると撮影は拒否されるようだ。

やすらぎの場に

先の不動神社のロケにも鳥居や名水の説明板まで引き抜いて、自然のままの景観を撮影した。当事者のご親切はわかるが、心して神域には、目障りな物はなるべく置かない方が良いと思う。必要ならば神域の入り口に建設すべきだ。人は自然を求め、老人はことさらに〝やすらぎ″の場所を探し求める。

三陸町観光協会さん、がんばって「春来る鬼」のセットは残してもらって下さい。地元民が協力し、正三建設さんも応接して、セット存続をぜひ物にして下さい。予算面からみても立石山の権現様の何分の一かで出来るようだし、やりようによっては〝不動観光〟の方がメリットがあると思う。

当事者の皆さん、この「不動滝観光」をぜひ実現させて下さい。

この夢を逃がすな、百年計画で―。

野形(綾里)の不動様

野形の不動様

年一度の例祭ときいて、十何年ぶりで綾里のお不動様を参拝した。昭和初年には九十九曲りの綾里峠の険しい道を、ある時は不動神社に降り、帰りには滝を眺め登りは道中の安全を祈って参詣し、霊気漂うあの渓流と苔むした岩肌に真夏の暑さもいっペんに消散し、何んとも言い知れぬやすらぎを満喫して峠の急坂を週一回の日程で往復した時もあった。

芭蕉の句に
○しずけさや岩にしみいる蝉の声

今まで何度も訪れてはいるが、年一度の例祭にお詣りしたのは今年初めてなのだ。
昔と変りないあの景観と心にしみる滝の音、秋は紅葉と参道には、一面に散乱する〝トチの実〟が印象深くなつかしい。

チャンス到来

小林旭が映画のロケに来ていると言う。

この絶好の機会に愚考を申し上げます。今年は二度お不動様に参詣して、あの名所を撮影するのが一つの目的で、広く宣伝したいのが私の念願なのです。

お祭りの時より二度目に行った時には、参道も清掃整備されて足場も大分良くなってはいたが、気のつくまま申し上げますと、

流れの小さな川ですが、景観上、赤い吊り橋に手摺り(六尺もあれば見映えがする)でもつけて、そこから天然の石段をつける(コンクリートや切り石ではなく、野形などの川に多い自然石を選ぶこと)。

それから神社の説明文は駐車場入り口前に建て替えること。説明も必要かと思うが、設置場所によっては、かえって周りの景観を悪くする。

次にトイレもぜひ必要なのだが、これも休憩所と共に、参道外に置くことと、電気を配線することも早急にやってほしい。また地元民と話し合って、今撮影中の映画に、「野形太鼓」の協演等も交渉してみてはどうですか。千載一遇の好機会、見逃す手はないだろう。地元民の熱意と協力があれば経費などは大したことがないと思う。以上は、さし当たり急を要する事業だと思われるが…。

新トンネルを

次に、リゾートエリアヘの提案だが、名所と距離と交通が重大な問題となる。どんな絶景の地でも距離が遠いと敬遠される。交通が不便な所には誰も行きたがらない。綾里~大船渡間の合足トンネルの開通も間近だが、それでも赤崎町~小路の間は、かなり遠回りだ。

距離を短縮するには、野形から永浜にトンネルを掘削すると、合足回りにくらべ半分の距離になり、赤崎町の県道の交通難も大分緩和され、不動神社もかなり近くなる。

また、三鉄を利用しても、気仙管内の学童等の遠足コースには絶好の場所です。社殿の改築とか不動温泉の開設等は将来課題として-あの沢の観光開発には綾里ダム建設と平衡して道路の拡張と舗装が急務と思われる。

思うことが思うように行かないのが世の一般と心得てはいるが、最初から大きな構想では採算が行き詰まるだろうが、小さな文化遺跡等を掘りおこして、リゾートエリアの参考にでもなれば幸いと思います。

年老いたせいか、世間の事物が目につきやすく気になり、ファインダーに飛び込む物は何んでも撮影するのが私の生きがいでもあり、また、語り放題が私の悪い癖で、手当たり次第に写すことと、物を書くことが楽しみな昨今です。ツメのアカ程の参考にでもなればと思い、失礼ながら申し上げます。あしからず…。

提 案

映画『春来る鬼』 のロケ本決まり-。去る七月二十七日付の新聞報道か見て、自分の事のようにうれしくなって、愚案を申させて戴きます。

綾里の野形不動神社周辺を中心に、ロケーションのため地域整備と撮影用セットの建築と、ヒエ畑の植え付けなど、かなり大がかりな作業となろうが、ロケ終了は十
一月との事ですが、その建築物等はすべてそのまま解体せずに、保存払い下げが出来ないものだろうか。

それから前文にも書きましたが、案内板は境内の入り口に移転すること、神橋を神社の直前の流水に奉納して景観を引きたてたいと思います。化粧橋は鉄製にして約一間と幅二尺位あります。運搬設置をお引き受け下されば、私のやすらぎの場所に、八十三歳の長寿の感謝を祈念して奉納申し上げたいと思います。

 

楽しかった敬老会

台風18号が小笠原諸島から北上して関東地方に接近との予報。夏以来雨降りの連続。今日も朝からそぼ降る中を地区公民館主催の年1度の「敬老会」に出席した。

70歳を過ぎてから毎年、親切に案内状を戴きながら欠席を続けて来たが、今年こそは出席してお世話になろうと昨日までもその気で小たが、当日になり、またもや行ぐべが、なぞすべと、いつもの引っこみ思案が始まった。

近所の老友とも話して行くことを約束したのは夕べのこと。どういう訳か、思い返してみたら、耳が遠いのが気遅れの原因のようだ。他の人と親しく話しかだりしても、二言目には、なんだったべ…となる。とても失礼で、もっけになるので、わがったふりして返事をすれば、まるで言うことが〝チンプンカンプン″だ。外国人にでも会った時のようにさっぱり訳がわがんねァ。

家族の者であれば、愚妻等が注釈するのであんまり不自由はない。補聴器を使用しているが、非常によく聞こえる声と、全く聞きとれない声とがある。どうしたことか女の人の声はわかりやすいようだ。そんなことだから耳が遠いと友情までもが疎遠となってしまう。人の集まる所、講演などに行っても馬耳東風なのだ。

老人クラブゲートボールも、歩け歩け運動もジョギングも、何ひとつとして老人の集まりには無縁居士だ。淋しぐなかんべが…と言われるが、それがどうしてどうして、多趣味であるから毎日が忙しいのだ。老後はできるだけ他人に迷惑などかけず、心の向くまま気の向くままに今まで出来なかったことをやりながら過ごしたいと思っている。

そんな風なので、腰が重い所に妻の声。昨日まで、行ぐ行ぐつて喜んでいたのに、今日になってなんとやめっどごだべがや、10時半になってば。友達ァどもあぎれでだべ…と言われ、重い腰をようやく上げ出かけることにした。

敬老会場に着いた頃は雨も小降りになっていた。同輩たちも遅ればせながら、ちらほら見える。奉仕の婦人会員のご案内で宴席についたが、すでに満席だった。部落別に着席するのだが、遅れたために他部落の席についた。

関係当事者たちの挨拶はみな〝長寿おめでとう〟 であった。テーブルには心づくしの山海のごちそうと、老人向けの唄踊りで大変にぎやかだ。どの顔も、シワだらけの顔がほころびて楽しくうれしそうである。

見えないのは自分の顔だけだった。

とって返ってカメラを持って会場に戻り、部落の面々の写真を撮り、久しぶりに会った友人、なつかしの老友をひと通りスナップにおさめることができた。

主催者並びに奉仕のご婦人方のご好意を無にせず、初めて出席した感謝の意を申し述べたく投稿致しました。盛町敬老会ありがとうございました。

豊年だ万作だ

全国隅々まで唄のない町村はないだろう。歌、唄、謡、里謡、民謡、小唄、地唄、歌謡曲と数々の曲が古来唱い続け伝えられている。心の古里の子守唄等数々ある。

なごむ心、やすらぎの曲を聞きながら育てられた私は唄が大好きだ。中でも民謡が好きでよく愛唱したが、長い年月を生き抜いた私の声も塩から声だ。それで今はあまり唱う機会もなくなったが、なつかしさの余り時々、民謡の里を訪ねてみる。文化財が消えゆくと共に薄れゆく唄も数々ある。

幼児の頃から耳にした唄に〝豊年だ万作だ”の里唄がある。酒の集まりや、お祭り
の囃子に、気仙地方では知らない人がない程の郷里の唄であるが、さてその歌を満足に唱える人のないのには驚いてしまう。曲はみなわかっているのだが、歌詩がわからないのだ。たまげたもんだ。

それを囃して踊った昔の人々をたずねて歩いてみたが、出だしばかりは調子よいが、あとが続かない。1番の詞と2番の詞の混ぜこぜもあり、この間の「敬老会」の時にも唄好きの老人仲間なら解る者もあるだろうと、聞いて回ったが、知る人もなしで、まさに秋の風のような淋しい限りだ。

甚だしいのは、〝かっぽれ”の文句まで混ぜている人もあった。私の覚えのある所だけ書いてみるが、里謡、民謡を消さないためにも、誰か手助けして下さい。

一、豊年だ万作だ 稲穂も揃って出たわいな アトワカラナイ
二、おもしろやうれしやな 正月二日の初夢に おまえ百までわしゃ九十九まで共に白髪の生えるまで 高砂子夫婦の仲人で おまえさんと添うとこ夢にみた

故・金野菊三郎先生を偲んで

金菊先生との出会いは割り合いに古くて思い出も多く、最初は赤崎中学校の落成式の折り色々の展示会が盛大に開催された。友達と子供等を連れて見物に行った時だった。各教室の学童、その他の作品を見てまわり、たしか応接室をのぞいて驚いた。市内では見た事のない立派な盆栽が三鉢あった。松と、杜松の銘木だ。前後にまわって見ていたら、金野校長先生が入ってこられて、「佐藤君、大したもんだべ」と話しかけられた。「立派でがす。遠くから海を渡って来たもんだもの」。そしたら先生、「どごで、そんごど、わがんべ」と言うので、私の知人で船主であり船頭である石巻の人で、永沼さん、その人は残念な事に自分に子供が無いので、趣味は盆栽で何百鉢も盆栽持ってる事を説明した。船が大船渡に入港すると時折り、立ち寄ってしばしその話を交わしたものです。その永沼さんの鉢だったのです。金野先生が「此の際、一鉢貰ってやんべど思う」と言うので、私の浅い経験で、「やめらっせん先生、とてもだめなもんだでば、宝の持ち腐れで……。たとい、貰ったって、銘木ともなれば、私等のような、山出し植木でさえも満足に成育出来ない者がとても、この立派な盆栽の管理はむりだど思うがら、経験豊かな先生であれば別だが……。先生の言うには「水さえ切らさねば、大丈夫だべもの」。私もまげずに、「人間だって、おままさえ食わせでおげば、立派な人間になると同じごどだでば……」などと盆栽の前で大笑いしたのが初めての出会いだった。

私の職業については始終お世話になって公私共にお引立て下さった事は忘れられない。現在、商売は子供等にまかせて先生との事は、思い出し、あじだし話している。先生の盛中学校在職中の頃、私の長男が二年生だったと思うが……。
突然、中学校から電話があって、その日午後一時から会合があるから来て下さいというので、はいと言って電話を切ったが、あまり急ぎの集りで、なんの事か判別がつかない。多分、父兄の集まりだろうと思って出席した。ところが驚いた事に集合場所は、教室でない、講堂でもない、女の先生に案内された室は校長室で、職員の先生一同、椅子に着いて待ち受けていた。見渡せば、父兄会にあらず、呼ばれたのは私等親子だけだった。
開口一番、校長先生から正面に居られる見知らぬお客様二人の紹介で、こちらは仙台電波管理局のお方で、桜場放送局の事で、わざわざ仙台から来られたとの説明に私はびっくりした。当時、ラジオは多少の知識があったが、無線電波の事はまるっきり解らない。が、長男が近所の友達と有線で話し合っていたのは知っていたが、夏休みに入ると今度はアンテナを二階の窓から張って、「こちらは桜場放送です。ただ今電波発信中。どうだ聞こえるか」と互いに送信、受信をくりかえし楽しんでいた。まさか遠くまで届く程の出力はないだろうと思って放任していたが、思いかえせば夏休みのある日、猪川中井の放送局長が来られて「桜場放送局はこちらでしょうか」と訪ねてきた。そして、器具は警察に押収されて持っていかれ、長男を面接させて電波管理の話しを説明されてお帰りになったが、まさか、仙台電波管理局から来られるとは思わなかった。中学校の先生方には電波のお話をしたり、家の子供には電波の専門学校へ入学を勧める話などして、無事会合が終わったが、一時はどうなる事かと先生方にも、とんだご迷惑をおかけしたのは申し訳けないと今でも思っている。

金野先生は私の家に来られる度に、「桜場放送局長居だが」と声をかけて下さった。 話しが変わって、教職を退職されて、大災害のチリ津波後の津波災害の記録の編集には、殊更熱心に資料収集に足をはこばれた。私の手持ち資料は明治、昭和、チリ津波の災害現場はほとんどと、明治の資料等も知人を尋ね複写し、記念碑等も先生と共に史料を調べ、撮影したものだった。そのほか、先生の遺作品は永久に世の人々に語り継がれる事でしょう。
先生は人に好感をもたれ、老若男女別なく私等としては先輩であり、指導者でありました。でも、人のお誘いには必ず賛成して、心よく事柄を運営して下さった。大船渡菊花会も発会当時は四、五十名の会員を集めたが、金菊先生もその一員として実に熱心に協力して下さった。
乾燥肥料の製造には、会員全員に配給するために悪臭の魚粕を臼で粉砕したり、米ぬかと油等を混合して肥料造りなど、なんでもご協力して下さった。菊花展も先に立って会場の整備をして下さり、大盛会だったが、お互い様に病魔に取りつかれ、菊造りは出来なくなったが、その時の顔ぶれは何人も残っていないが、菊花会は引き続き毎年、市主催の展示会に立派な作品が人目を引いている。
先生はまた、山に誘えば山に行き、海に誘えば海に行く。私がお誘いしてお断りされた事が一度もなかった。板用の高稲荷山に登って奥様の大好物だとシドケをひと抱え取って、姫小松の苗を掘って来た事など、思い出はつきない。越喜来峠にツツジ観に行った事、馬場淵川で、鮎のがらがけの話など、あのころは最高に楽しかった。先生と一緒の時はなおさらユーモアたっぷりで、先生とは二つ違いで、八十の峠を越えたれば、今日は今日までで五十歩百歩の差です。

ご冥福をお祈り申し上げます。

銀行創立の思い出

はなし家の枕言葉のようで現代の子供達が聞いたら、吹き出し笑ってしまうような話である。

大正の初年、小学校3年生の頃か、預金奨励とかで柴刈り、縄ない、ワラジ造り、親の手助けと、二宮金次郎の唱歌を指導された。

その頃、〝一銭預金″を郵便局で勧め取り扱った。1銭の切手を20枚ぐらい張りつけたカードを差し出すと、はじめて合計金額が記入されて渡される。

家に着くまでには何度も開けてみては、額面をみる楽しさで、ひとりでに、にっこりする。金額が〝1円″にでもなると、笑いが止まらない。何しろ、1銭あれば、5個刺したダンゴが2串も食える時代だ。預金をするなどということは一大決心なの だ。

5円の額面の通帳を持っている子供等はほとんどいなかった。毎月、学校では受持の先生が預金調べをやるが、半数ぐらいの児童は預金なし。2、3円でもあれば大威張りで手を上げる。2、30銭では、そっと手を上げる。そんな時代だから、一般庶民には銀行という所は何の役所だろうと思ったにちがいない。子供心にも不思議に見えた。

その銀行に出入りするのは筒袖(つつそで)の着物に羅紗(らしゃ)の前掛け、角帯をきりっと締めて皮カバンをさげた商店の旦那様方だ。

当時、盛町には盛岡、気仙、盛と三銀行があって、大船渡町には盛岡銀行出張所が開設された。明治41年、盛銀行と昭和初期の大船渡信用組合の設立当時の重要な役割を果たした諸氏の面影を、失礼とは存じながらも、思い出懐かしく、ここに掲載させていただきます。

盛銀行買収記念の写真は千葉忠治梯の長男・良治先生からお借り致しました。先生ぁりがとうございました。(私が4歳の時)

肥田柿の思い出

30年ばかり前に、何かの本で『肥田柿』原産地のことを読んだことを思い出した。その記事には、原産地は、「陸前越喜来村肥田」と載っていた。全国に知られている「肥田」はなぜ悪いのか。私が古いのか、「小枝」は賛成できない。やっぱり、生まれ故郷の『肥田柿』を守りたい。地元に元祖が現存して繁っている写真と記事を見て、よかったよかったと思った。「○沢平吉」さん、達者で『肥田柿』を守って下さい。

そこで私も、『肥田柿』 の事について、見た事、聞いた事、経験した事を思い出して書いてみました。専門家ではないので参考にもならないとは思いますが…。

都市計画で、市に住宅地として、わずかばかりの畑を買収された。10本ほどあった柿の木もなくなり、裏庭に、ただ1本だけ名残りの柿の木があります。それは『肥田柿』です。毎年よく実ります。

皆さんもよくご存知のとおり、”ぶどう”と”柿”は他の果樹と違って、毎年その年の若芽と花をつけて、葉と共に伸びますが、梅雨の時季など、少しの風でも、弱い枝は折れて、実も落下してしまいます。

花芽も、ぼろぼろ落ちます。親指ぐらいの青い実は、庭一面に落下しますが、それは〝やませ〟とか気候の関係ばかりでなく、授粉が完全でないので、自然が適当に摘果しているようです。春に花が咲いたぐらいの数が結実したら、まるで〝豆柿″ のような小さな実になると思われます。それと、他の果樹のように、手入れも肥料もなしでは、1年休みでなければ実も付きにくいように思われます。

柿畑を造成して、低木仕立にし、もっとたくさんの木を植えて果樹園を造ったら、名物『肥田柿』も近い将来、希望がもたれるようにも思われます。

〝桜折るばか、梅折らぬばか″よい川柳だと思う。柿もその通りで、子供の頃から、よく柿落としに行ったものだが、荷車引いて、空のままの〝カマス″を積んで、それに柿の木の高さに届くぐらいの長い竿竹をかついで行ったものだ。昔は柿の木は、畑の日陰にならないように、畑ぼとりに植えたもので、みんな自然仕立ての高木ばかりだ。

柿の木は太く見えても、もろいもので、折れやすいものだ。柿の実と栗の実は、 〝ほろぎ落とし〟と言われ、長竿でたたき、それで枝まで折れれば来年も豊作だと、わざわざ小枝をたたき折る。これが昔の剪定だ。私の大事な1本の柿は3mぐらいで、はしごを登って一つひとつの枝を、来年も芽の出る所を残すように折り取り、毎年秋の収穫を楽しみにしている。

折り取った実は、300個ぐらいを枝のまま軒下に吊して熟し柿にして、3月頃まで
食べる。真っ赤に熟した『肥田柿』 のおいしいこと。輸送のできないのが心残りだ。

思い出したが、『肥田柿』 の味は、三陸町のが最高で、次は大船渡市内(立根、日頃市) で、原産地から遠ざかるほど味が落ちるようだ。

他種類の柿や豆柿が自然に多く繁っている土地は、実がつかずおいしい柿にはならないように思われるが、他に経験された方々のお話しも伺いたい。

 

海と山と椿と

今出山に登る

大船渡市を取り巻く霊峰の山々。北に五葉山(1,341m)西に氷上山(874m)東に今出山(757m)。五葉山、氷上山の山開きは真紅なツツジが萌ゆる頃に盛大な祈願祭が行われた。

私は山が大好きで、大船渡市内の山という山は登らない山はないほどだ。大船渡湾の全景は、大船渡小学校裏山の、猪ノ頭頂上以外に見渡せる場所はないようだ。湾口から盛川筋、猪川まで見通せる。話は横道にそれたが、写真撮影者の参考までに。

所で、今出山には山開きがない。林立する電波の塔、市民の生活に密着した重要な役割を担う山は今出山ばかりだ。三山の中で神社のないのはこの山だけだ。年中閉山することなく開放され、親近感をおぼえる。中井沢森林浴と頂上のツツジの大群落は200mも続く。西南に盛、大船渡の市街は、まるで航空写真を見るようだ。碁石崎、黒崎、唐桑半島、牡鹿半島と、晴天の日は遥かに金華山まで眺められる。

東を望めば三陸海岸の入り江が手に取るように見渡せる。陸前の海岸線は一目で眺望できる。三陸沿岸では最高の絶景だ。老人も子供も連れて頂上まで車で登れる山は、沿岸地方では今出山が最高だろうが、残念なことには岩石道で、自家用車族は敬遠する。

赤坂峠から三陸の大窪山と夏虫山の道路は全面舗装整備され、鹿の群れを見ることができる。四季折々の風景をたっぷり堪能できる。今出山の道路も全面舗装されれば、日の出も眺められ、市民の憩の場として、今、さかんに叫ばれているリゾート構想の一つとして取り上げては……これは私個人の提案なので、皆さんには認めてもらえるかどうかわかりませんが、中には見てくれる人もあるだろう。

九州の熊本では、日本一の石段 (3,333段) に身障者が登った。あの涙ぐましい努力はテレビでも放映されたが、あれを見た人は誰でも感心せずにはおられなかったと思う。今出山にも中井沢の刈山から石段を造成すれば、700mで約5,000段の日本一の石段が出来る。100mごとに踊り場を設け、七福神を祀る。幸いにも途中には湧水もある。(山頂には水はない)頂上には今出山神社を建立して、登山者のやすらぎと心身の精錬の道場とする。夢のような話だが、実現できないことではないと思う。

椿の里に

樹齢200年との推定だが、盛町の洞雲寺の椿の保存と繁殖に十年前から手がけているが、何しろ素人なので、努力した結果、三年目でやっと十本程活着し、新芽が伸び始めた。そこでどうだろう、椿の里に、その名にふさわしい椿の名所を造成しては。

専門家によると、ざっと一千種類はあるようだ。大船渡農業高校では毎年三月の卒業式には卒業生の父母たちに、生徒たちが入学と同時に育てた鉢植えの椿をおくっているようだ。そこで、専門家の指導を得て、千種類もの椿の観光園等を造成してみてはどうかと思う。

福島県の三春町という所は、あまり大きな町ではないが、桜の名所を手掛けている。全国の桜の種類を集めて全国一の桜の名所を造ると言う。金銭の問題ではないと思う。市民の力を結集すれば実現も不可能ではないと田いう。

一大事業を成し遂げるには、計算ばかりではない。度胸と努力で成し遂げることだと思う。言いたい放題あしからず。

追憶私の東京

辻の愛娘との悲しい別れは、私の修行初期に大きな衝撃を受けたが、私には一生の運命を決定づける希望の灯りが見えて来た。

真昼の逃走

浅草玉姫町の職業紹介所に勤務の辻の甥に、かねて連絡をとってあって、「三ツ大写真館」はどうしても出なければならない。夜逃げではない。真昼の逃走なのだ。今思い起こしてみれば、叔母から四円五十銭もらって、その頃、大流行の鳥打ち帽子に餅の単衣着物に下駄ばき姿、全財産の入った竹篭行李を担いで市営電車に乗り込んだ。

車葦さんが、その格好をみて、何事ですか?と聞く。

ハア、逃げんでがす。まだ盛弁が抜けきっていない。まあ急いで乗んなさい…どこまで?ハア、大塚終点まで行ぐんでがす。片道切符を五銭で渡された。満員電車の中は、あちこちから、クスクスと、嘲笑しているのが耳に入る。東京に出てきて初めてかいた恥だ。

それでも、渡る世間には嘲笑ばかりではない。助けの神もたくさんある。幸運にも私はその神々に恵まれ、私の修行はここから軌道にのりはじめた。辻助左工門さんの口ききで、東京では有名な九段坂の「野々宮写真館」(現在は無い)に入門することで面接に行った。

主任技師の山崎静村先生は初対面の印象が実に立派なお人柄で、話すこともやさしく大変親切であった。ところが、私の弟子入り先はその店ではなかったので意外に思った。説明をだまって開いて指示に従うつもりでいた。三日間程静岡に出張するので住所を書いて帰って待つように、都会は恐い所だから気を振らずに待てと言われて叔母の家で待つこと二日目の午後、親切丁寧な手紙が速達で配達になった。

山崎先生の指示

封を切るのももどかしく、文中には「待たせて申し訳けない。今からすぐ来るように」との内容であった。急いで九段に出かけて行った。山崎先生がお見えになって、元経営していた人形町の「三笠写真館」に行くように話された。その間、野々宮の営業内容のお話をなされ、現在、技師と門下生が二十人は働いている。あんたが入門すると二十一人目だ。一年、二年は下働き、本業が身につくのは五、六年以降になるから、こんな会社では修行にもならない。個人経営の確実な技術家に弟子入りした方が良いと教えられ、人形町に行って受け入れられなかったらすぐ引き返して私の所に来なさいと言われて「三笠写真館」に向かった。

玄関では、先生である館主が応対に出た。

今日の午前中に一人入門したばかりだとかで、困った様子だった。山崎先生の紹介を断るのが申し訳けないと、非常に平身低頭だった。もしだめだったら別な方法を考えるから引き返して来るように言われましたから…と暇乞いして再び急いで引き返した。夕闇せまる夏のバラック街の灯はまだ灯されず、野々宮には電灯とガス灯がともり待ち受けてくれた。

これからが私の一生忘れ得ぬ運命の別れ目、そして神の導きで幸福の糸口を掴む第一歩を踏み出したのである。山崎先生は早速電話をかけ、五分と経たぬうちに牛込甲良町に行くよう、案内図も書いてもらい、夜になり申し訳けないが大至急「橋本写真館」に行ってくれ、とせきたてられ、案内図の通り新宿行きの電車に乗り、やきもち坂で降りた。街路から両側にウィンドウのある門をくぐり、五分間ぐらいで洋館の建物に入った。すぐに門下生室に入れられて間もなく館主の橋本良知先生に面接した。岩手から出て来たことなどから話しはじめ、その後、種々、修行中の注意があった。

その中に深く心に刻み込まれた格言に〝江戸ッ子にはなるな、不要な友達は作るな〟 と言うのがあった。私はこれ等の注意はかたく守り、寝る間も惜しみ修行に励んだ。明日、叔母と一緒に改めてご挨拶に上がりますからと申し上げたら、その必要はない。山崎君の紹介で充分だから荷物があるならすぐ取りに行きなさい…と。そこには仁義も何もない。まさに信義あるのみだった。涙が出るほどうれしかった。日蓮本法会の副会長でもあられる熱心な人でもあった。

同郷のよしみ

また、その会の会長である赤坂見付の「秋尾写真館」の館主は、乃木将軍最後の写真撮影をされた方であった。その店には気仙沼から上京した天才技師とも言われた、林金原さん(遠野市須藤写真館の甥)が居て、私も時折り訪ねては教えを受けたものだ。郷里では離れていても旅では同じ東北人であり、隣県の誼(よしみ)で親切に指導を受けた。その、さすがの天才(先輩)も薄命ゆえに早逝されたことが惜しまれてならない。

私の人生に大きな英気と影響を与えて下さった恩人・助左工門様、この秋までには必ずお逢いして、思い出ばなしをさせていただきます。私は八十三歳の青年です。八十八歳は壮年真っさかり。お元気でお待ち下さい。是非とも国立公園西伊豆もまた見せていただきます。ペンション経営の知世子様におねがいします。私の恩人であるご両親を、どうぞ大切にして下さい。