佐藤写真館

追憶私の東京

昭和63年6月15日

辻の愛娘との悲しい別れは、私の修行初期に大きな衝撃を受けたが、私には一生の運命を決定づける希望の灯りが見えて来た。

真昼の逃走

浅草玉姫町の職業紹介所に勤務の辻の甥に、かねて連絡をとってあって、「三ツ大写真館」はどうしても出なければならない。夜逃げではない。真昼の逃走なのだ。今思い起こしてみれば、叔母から四円五十銭もらって、その頃、大流行の鳥打ち帽子に餅の単衣着物に下駄ばき姿、全財産の入った竹篭行李を担いで市営電車に乗り込んだ。

車葦さんが、その格好をみて、何事ですか?と聞く。

ハア、逃げんでがす。まだ盛弁が抜けきっていない。まあ急いで乗んなさい…どこまで?ハア、大塚終点まで行ぐんでがす。片道切符を五銭で渡された。満員電車の中は、あちこちから、クスクスと、嘲笑しているのが耳に入る。東京に出てきて初めてかいた恥だ。

それでも、渡る世間には嘲笑ばかりではない。助けの神もたくさんある。幸運にも私はその神々に恵まれ、私の修行はここから軌道にのりはじめた。辻助左工門さんの口ききで、東京では有名な九段坂の「野々宮写真館」(現在は無い)に入門することで面接に行った。

主任技師の山崎静村先生は初対面の印象が実に立派なお人柄で、話すこともやさしく大変親切であった。ところが、私の弟子入り先はその店ではなかったので意外に思った。説明をだまって開いて指示に従うつもりでいた。三日間程静岡に出張するので住所を書いて帰って待つように、都会は恐い所だから気を振らずに待てと言われて叔母の家で待つこと二日目の午後、親切丁寧な手紙が速達で配達になった。

山崎先生の指示

封を切るのももどかしく、文中には「待たせて申し訳けない。今からすぐ来るように」との内容であった。急いで九段に出かけて行った。山崎先生がお見えになって、元経営していた人形町の「三笠写真館」に行くように話された。その間、野々宮の営業内容のお話をなされ、現在、技師と門下生が二十人は働いている。あんたが入門すると二十一人目だ。一年、二年は下働き、本業が身につくのは五、六年以降になるから、こんな会社では修行にもならない。個人経営の確実な技術家に弟子入りした方が良いと教えられ、人形町に行って受け入れられなかったらすぐ引き返して私の所に来なさいと言われて「三笠写真館」に向かった。

玄関では、先生である館主が応対に出た。

今日の午前中に一人入門したばかりだとかで、困った様子だった。山崎先生の紹介を断るのが申し訳けないと、非常に平身低頭だった。もしだめだったら別な方法を考えるから引き返して来るように言われましたから…と暇乞いして再び急いで引き返した。夕闇せまる夏のバラック街の灯はまだ灯されず、野々宮には電灯とガス灯がともり待ち受けてくれた。

これからが私の一生忘れ得ぬ運命の別れ目、そして神の導きで幸福の糸口を掴む第一歩を踏み出したのである。山崎先生は早速電話をかけ、五分と経たぬうちに牛込甲良町に行くよう、案内図も書いてもらい、夜になり申し訳けないが大至急「橋本写真館」に行ってくれ、とせきたてられ、案内図の通り新宿行きの電車に乗り、やきもち坂で降りた。街路から両側にウィンドウのある門をくぐり、五分間ぐらいで洋館の建物に入った。すぐに門下生室に入れられて間もなく館主の橋本良知先生に面接した。岩手から出て来たことなどから話しはじめ、その後、種々、修行中の注意があった。

その中に深く心に刻み込まれた格言に〝江戸ッ子にはなるな、不要な友達は作るな〟と言うのがあった。私はこれ等の注意はかたく守り、寝る間も惜しみ修行に励んだ。明日、叔母と一緒に改めてご挨拶に上がりますからと申し上げたら、その必要はない。山崎君の紹介で充分だから荷物があるならすぐ取りに行きなさい…と。そこには仁義も何もない。まさに信義あるのみだった。涙が出るほどうれしかった。日蓮本法会の副会長でもあられる熱心な人でもあった。

同郷のよしみ

また、その会の会長である赤坂見付の「秋尾写真館」の館主は、乃木将軍最後の写真撮影をされた方であった。その店には気仙沼から上京した天才技師とも言われた、林金原さん(遠野市須藤写真館の甥)が居て、私も時折り訪ねては教えを受けたものだ。郷里では離れていても旅では同じ東北人であり、隣県の誼(よしみ)で親切に指導を受けた。その、さすがの天才(先輩)も薄命ゆえに早逝されたことが惜しまれてならない。

私の人生に大きな英気と影響を与えて下さった恩人・助左工門様、この秋までには必ずお逢いして、思い出ばなしをさせていただきます。私は八十三歳の青年です。八十八歳は壮年真っさかり。お元気でお待ち下さい。是非とも国立公園西伊豆もまた見せていただきます。ペンション経営の知世子様におねがいします。私の恩人であるご両親を、どうぞ大切にして下さい。