佐藤写真館

63年ぶり私の東京

昭和63年6月11日

JR・EEキップを利用して四十年ぶりに愚妻をお供に旅行した。たった三日間の短い日程だったが、初めて見る日光と、火防の神様として信仰の厚い古峰神社詣りと、長い間の念願であり六十三年ぶりのなつかしい東京を尋ね歩いてみたかったので、その時期も、私が初めて修行に出た桜のつぼみが開花直前の四月を選び、なるだけその思い出の実感を深めたいと心掛けた。

オイ宅で旅装とく

上野着の新幹線には、三男の出迎えで六十三年前と同様に、大正生まれの甥の家に旅装をといで夜の更けるまで話しが続くのだった。

翌日も春うららかな晴天、桜は満開となり、あらゆる花々も咲きはじめ、当時の十九歳の姿がまざまざと蘇るのだった。三男もまた来て、甥の車で四人揃って第二の故郷を訪ねに出掛けた。高層ビルもデパートも私には何の魅力も感じない。

私の修行中に大過なく見守って戴いた神様と恩師の面かげ、家族のことなど、休日に楽しく遊んだ場所とか、時々訪れては小遣いをもらった叔父・叔母が故人となった懐かしい場所と家等々が目に浮かぶ。その中には実に悲しみ深い所もある。

叔母の一人娘、春子は小学校六年生(当時)で、成績優秀、五年連続優等生の秀才。その上、色白の美人で、隣近所では評判の娘だった。両親は、この娘に大きな期待をかけたのだったが、その娘は道悪く腸チフスにかかり、板橋の病院に入院となった。

とんだ写真館

私は牛込の東五軒町の写真館に入門して三カ月目、具真の暑いある日のことである。実はそこの主人は写真師ではなかったのだ。本人は事業家であり、技師を雇っての経営であることに気づいた。話し合いをし.てもー向に解雇してくれないので、同僚と共に荷物をまとめ、日中、電車に乗り、巣鴨の叔母の所に逃げ帰ったのである。

叔母の家には誰もいなかった。春子の入院で、つきっきりで看病しているのだった。叔父は建築の請負仕事で、家には大工職人が二人住み込んでいた。田茂山の叔父は巣鴨刑務所の看守でこの家に下宿していた。それからが大変である。慣れない四人分の炊事、洗濯、病院に弁当を届けたりと、毎日テンテコ舞いである。昼、夜と交替勤務の叔父にも弁当を届ける。

中仙道板橋の昔の宿場町、滝の川通りを近回りして毎日、近藤勇の墓の前を通り合掌し、春子の病気回復を祈りながら、三キロの往復が七日間も続いた、春子の病は入院以来、悪化するばかり。そして幼い蕾は哀れ開花もせずに天逝したのである。叔母は看病疲れで倒れてしまった。そこの場所は、三十五歳の志士・近藤勇が板橋の刑場で露と消えた所、一人の姪の運命の灯が消えた所と、私には忘れられない場所となった。そしてその翌年の大正十四年、今回の旅行の案内役をした甥子が誕生したのであった。

私は別に近藤勇を崇拝している訳けではないが、あまりにも思い出が深いので、調布の道場と生家と街道の向かいの近藤神社とその胸像を拝観して、叔母と春子の冥福を祈る。

何もかもが…

四十年ぶりで訪れた板橋の墓は建て替えられたのか、変わっていた。近藤、土方、井上の三人の名が彫られていた。空襲で破損したのであろうか、以前は近藤勇の墓一名で、五、六本の松が植えられた小さな公園であった。驚いたことには、恩師宅も、お世話になった町内の隣の家々も元の面影はひとつも残っていない。その辺で事情を話して聞いても誰も知る人もいない。楽しかった神楽坂の賑わいも、毘沙門梯も鉄筋コンクリートに建て替えられ、浅草の観音様も仁王門も昔の物は何もない。

”私の東京”は心淋しい幻の東京と化し、二日目の予定は終わり、まるで浦島太郎の心境だ。

今夜は埼玉の三男の所に宿泊。買ったばかりで近代趣向の間取りの家だった。三男の五人家族に仲間入りし、老体をゆっくりと休養してEE切符の最終日とした。短期間ではあったが、おかげ様でわずらわしい切符買い替えの手数がなく、乗り放題で心良く旅行が出来たことを心から感謝申し上げます。JR様、ほんとうにありがとうございました。