佐藤写真館

三陸大津波のこと

昭和63年3月8日

あられまじりの朝

毎年迎える桃の節句の雛祭り。昭和8年の3月3日は忘れられない 「三陸大津波」の記念日となった。あられまじりの小雪が降った寒い早朝に、消防団員に出動命令が発令された。昨夜の大地震で津波襲来の報道と、救難活動の指令。各分団は大船渡方面と赤崎方面とに手分けして被災現場に向かった。

すでに悪魔の水は暴れ終わって引き揚げたばかりで、地の森から欠の下、茶屋前までが海底から押し上げられた真っ黒な泥、泥、泥で埋まってしまった。下船渡までは流失した家屋は幸いになかったが、倒壊した家の下敷きになり幼児を背負った、若い母子が津波の犠牲者となった。大船渡での唯一件の死亡者だった。

後世の参考のために申し上げますが、この人は一度、高台に非難したが、寒さが厳しく耐えがたく、止めるのも開かず、ねんねこを取りに我が家に戻ったその瞬時が運命の別れ目となってしまったのだ。良くある事だが、いったん非難したら、必ず事がおさまるまでは独断では行動しないことだ。

遺体の列に涙

船河原部落は二十数戸が流失し、溺死者は最も多く20人。この遺体が丸森海岸にずらっと並び、線香の煙がたちこもり人々の涙をさそったのでした。大波を真っ向にかぶったその船河原も1年後には鉄道の高い堤防が築かれた。細浦に来た時は、ただただ驚くばかりだった。ほんとうに何もないのだ。人命の犠牲こそないものの、家も船も何もない。ほんとうに全滅なのだ。

連日、被災地撮影

三日付東海新報津波記事報道の写真は私が当日撮影したものだが、ほんとうにあの通りだった。鳶押し担いで消防団員も現場まで来たものの、何も手のつけようがない。正午は過ぎた。急いで引き返し、取枠全部、乾板を入れ替え、自分の任務についた。この惨状は後世に記録し、残すべきものと津波の恐ろしさを伝えるのは俺の任務と決心して、毎日毎日、被災地撮影に歩いた。

当時はカメラもフィルムもあまり進歩していなくて、暗函機械にカビネの乾板を一打入れるとかなりの重量となる。大船渡2個所、細浦2個所、赤崎3個所と、被害の甚大な所を重点に撮り始めた。乾板が大量に持てない事と持参しても交換に困るので制限がある。

農林大臣一行

翌日、農林大臣が広田に災害視察に来られると聞き、早朝、広田泊港に行った。脇の沢あたりから小型の発動機船で港に到着したが、海上からの視察なので、被害の意外に少なかった泊だけを見て上陸はしなかった。2、30分位で高田方面に引き返した。やっとのことで其の一行を撮影することができた。

原版大切に

その後、被害甚大な細浦、赤崎、全滅の綾里港と越喜来、唐丹は素通りして下閉伊方面に行かれたらしい。4日目は綾里峠の九十九曲を往復して3個所、5日目は、日本赤十字の救護班の車で崎浜に同行させて戴き、おかげ様で越喜来3個所を撮影することが出来たが、とても唐丹までは不便で歩けなかった。撮影した写真は津波記録誌やらテレビ放映等に有効に利用している。

あれから早や55年。原版は大切に保存している。