佐藤写真館

故・金野菊三郎先生を偲んで

昭和62年10月10日

金菊先生との出会いは割り合いに古くて思い出も多く、最初は赤崎中学校の落成式の折り色々の展示会が盛大に開催された。友達と子供等を連れて見物に行った時だった。各教室の学童、その他の作品を見てまわり、たしか応接室をのぞいて驚いた。市内では見た事のない立派な盆栽が三鉢あった。松と、杜松の銘木だ。前後にまわって見ていたら、金野校長先生が入ってこられて、「佐藤君、大したもんだべ」と話しかけられた。「立派でがす。遠くから海を渡って来たもんだもの」。そしたら先生、「どごで、そんごど、わがんべ」と言うので、私の知人で船主であり船頭である石巻の人で、永沼さん、その人は残念な事に自分に子供が無いので、趣味は盆栽で何百鉢も盆栽持ってる事を説明した。船が大船渡に入港すると時折り、立ち寄ってしばしその話を交わしたものです。その永沼さんの鉢だったのです。金野先生が「此の際、一鉢貰ってやんべど思う」と言うので、私の浅い経験で、「やめらっせん先生、とてもだめなもんだでば、宝の持ち腐れで……。たとい、貰ったって、銘木ともなれば、私等のような、山出し植木でさえも満足に成育出来ない者がとても、この立派な盆栽の管理はむりだど思うがら、経験豊かな先生であれば別だが……。先生の言うには「水さえ切らさねば、大丈夫だべもの」。私もまげずに、「人間だって、おままさえ食わせでおげば、立派な人間になると同じごどだでば……」などと盆栽の前で大笑いしたのが初めての出会いだった。

私の職業については始終お世話になって公私共にお引立て下さった事は忘れられない。現在、商売は子供等にまかせて先生との事は、思い出し、あじだし話している。先生の盛中学校在職中の頃、私の長男が二年生だったと思うが……。


 

突然、中学校から電話があって、その日午後一時から会合があるから来て下さいというので、はいと言って電話を切ったが、あまり急ぎの集りで、なんの事か判別がつかない。多分、父兄の集まりだろうと思って出席した。ところが驚いた事に集合場所は、教室でない、講堂でもない、女の先生に案内された室は校長室で、職員の先生一同、椅子に着いて待ち受けていた。見渡せば、父兄会にあらず、呼ばれたのは私等親子だけだった。

開口一番、校長先生から正面に居られる見知らぬお客様二人の紹介で、こちらは仙台電波管理局のお方で、桜場放送局の事で、わざわざ仙台から来られたとの説明に私はびっくりした。当時、ラジオは多少の知識があったが、無線電波の事はまるっきり解らない。が、長男が近所の友達と有線で話し合っていたのは知っていたが、夏休みに入ると今度はアンテナを二階の窓から張って、「こちらは桜場放送です。ただ今電波発信中。どうだ聞こえるか」と互いに送信、受信をくりかえし楽しんでいた。まさか遠くまで届く程の出力はないだろうと思って放任していたが、思いかえせば夏休みのある日、猪川中井の放送局長が来られて「桜場放送局はこちらでしょうか」と訪ねてきた。そして、器具は警察に押収されて持っていかれ、長男を面接させて電波管理の話しを説明されてお帰りになったが、まさか、仙台電波管理局から来られるとは思わなかった。中学校の先生方には電波のお話をしたり、家の子供には電波の専門学校へ入学を勧める話などして、無事会合が終わったが、一時はどうなる事かと先生方にも、とんだご迷惑をおかけしたのは申し訳けないと今でも思っている。

金野先生は私の家に来られる度に、「桜場放送局長居だが」と声をかけて下さった。話しが変わって、教職を退職されて、大災害のチリ津波後の津波災害の記録の編集には、殊更熱心に資料収集に足をはこばれた。私の手持ち資料は明治、昭和、チリ津波の災害現場はほとんどと、明治の資料等も知人を尋ね複写し、記念碑等も先生と共に史料を調べ、撮影したものだった。そのほか、先生の遺作品は永久に世の人々に語り継がれる事でしょう。

先生は人に好感をもたれ、老若男女別なく私等としては先輩であり、指導者でありました。でも、人のお誘いには必ず賛成して、心よく事柄を運営して下さった。大船渡菊花会も発会当時は四、五十名の会員を集めたが、金菊先生もその一員として実に熱心に協力して下さった。

乾燥肥料の製造には、会員全員に配給するために悪臭の魚粕を臼で粉砕したり、米ぬかと油等を混合して肥料造りなど、なんでもご協力して下さった。菊花展も先に立って会場の整備をして下さり、大盛会だったが、お互い様に病魔に取りつかれ、菊造りは出来なくなったが、その時の顔ぶれは何人も残っていないが、菊花会は引き続き毎年、市主催の展示会に立派な作品が人目を引いている。

先生はまた、山に誘えば山に行き、海に誘えば海に行く。私がお誘いしてお断りされた事が一度もなかった。板用の高稲荷山に登って奥様の大好物だとシドケをひと抱え取って、姫小松の苗を掘って来た事など、思い出はつきない。越喜来峠にツツジ観に行った事、馬場淵川で、鮎のがらがけの話など、あのころは最高に楽しかった。先生と一緒の時はなおさらユーモアたっぷりで、先生とは二つ違いで、八十の峠を越えたれば、今日は今日までで五十歩百歩の差です。

ご冥福をお祈り申し上げます。