佐藤写真館

昔の街道と橋

昭和62年9月17日

日本国の道路元標は、お江戸日本橋の中央に鉄柱で建てられてある今日、なぜ一里塚を探さねばならないのか。盛街道は現在の地図にも記載されているが、街道元標建立せずに一里塚を建てるのがわからない。

明治後に開通した現在の道路を走行して4キロだから約一里だ。では9月3日付の東海新報に投書された方のように違和感を覚えるのは一般市民だれでも同じではなかろうか。

正確に後世に伝えよう

最近の報道では、立根の一里塚も市文化財指定したとの事だが、史跡の保存が大事だということはもっともだが、もっと調査をしてから、わからないところは実際に測量して、ある程度の正確さを後世に伝えるべきだと思う。

現在その事業に当たる方々は、旧道の地理には不明の事が多いように思われる。たとえば松の木などがあったとか、まだ馬車もない時代に馬車が通った話。何百人もの溺死者とあらゆる家財や牛馬を、船もろとも流出した明治29年の大津波には、考えてみただけでも史跡の残るわけがないと思う。

以後の国道、県道に新しく一里塚を設定するなら話は別だが・・・。

盛川全域の板橋一本橋

私の記憶と幼い頃の聞き覚えを思い出してみよう。市民の生命の泉・盛川にも重要な橋さえ、人馬の渡れる橋はただ一つの稲子沢橋だけで、全盛時代に財閥稲子沢家が個人で架けたが、明治時代に大洪水で流出した。以後、倉の淵に県道が開通して猪川町新道を通り、盛街道水沢までは現在の国道になったが、107号線も北上まで。

私等子供の頃までは、盛川全域板橋の一本橋。写真のように牛馬は手綱を取って川下をざぶざぶ渡る。盛町の年中行事のお天王様も、お神輿をかついで権現堂に浅瀬をこぐ。

そんな訳で、中井渡り、佐野渡り、六地蔵渡り、いずれも洪水、出水では板の渡りは取りはずされて、通行止めとなる。

そんな時代は大正の初期までで、本格的な橋の第一番は、木橋の権現堂橋で、奥四ヶ浜に牛馬が渡れる様になった。現在の権現堂橋は4度目の橋だ。

大船渡へは盛街道を

私の部落は17戸で、登記所、盛税務署、高等小学校(4年制)を含めても20戸くらいだった。権現堂を起点に用水路が、今なら毎日の生活用水路が街の真ん中を流れ、両側が水路をはさんで商店街を通り、現在の市役所通りは沢川の流れが桜場を横切り、盛街道はここで地蔵様の前で直角に左に折れて、50メートルで土橋を渡って、その川に沿って田茂山に通り、40戸くらいの部落を抜けると、大船渡には道が分かれ、右に地の森峠と古沢畳屋さんの前を斜めに左に進む。

盛街道で津波の碑があった。一本杉と言った。電話局の裏を通り、両側一面の田んぼの通りを過ぎる頃に左に東釜の跡の棒材の残り、昔の製塩所跡が目につく。欠の下の街道を通り、茶屋前を過ぎれば人家はまばらで、千葉新商店が角で田んぼの中を、関沢医院の裏通りでそこらで地の森から赤沢を越えた細道が合流して川原、田中、馬越で、田中には赤い明神鳥居が割合に広い道路を跨いで立っていた。町役場は確かこの辺りにあって、佐藤文助町長時代のことだ。

地名が残ったのは加茂の明神様、旧大船渡中学校あたりがお宮の跡で、その下が現在の明神前と思う。

街道元標設置が先決

それで明治時代まで須崎川だって橋らしいものはない。今の須崎橋があれば一本の板橋で馬越あたりからは、平常、水が地下にもぐり笹崎に行くにも、潮水が流れ込まない川原を歩いた覚えがある。現在の茶屋前通りが開通以前の事で、ついでに書くようだが、旧街道の一本杉の津波襲来地点の記念碑と佐野渡りの六地蔵も、昔の人が念願かけて建立された事と思えば、元の地所に移転してはどうだろうか。

終わりに街道元標を設置するのが先決ではなかろうか。