佐藤写真館

常舞台の思い出をたどる

平成元年6月6日

盛町東部地域に字馬場がある。その昔の馬の調教や運動場である。幼い頃一度だけ草競馬を見た記憶がある。鐘と太鼓は洞雲寺から拝借して、何かの合図に打ち鳴らすと賑やかな農耕馬まで出揃って、馬場を駆け巡る。それでいまだに「馬場」の地名となっている。

相撲と芝居

相撲と芝居は、中井川原で興行と決まっていた。相撲は、本場所、中場所、小場所と巡業場所が指定されており、本場所は東京で、中場所は三陸沿岸では盛町の公認中場所と指定されていて、毎年一度は日程の通知を受ければ、地元世話人は興行の準備の役をする。

杭や長木と筵を集め、小屋掛けから枡まで割る。枡は五尺角位で、土俵前の四方一等席を枡席とし、入場料のほかに枡料を支払うことになる。

そのほか、土堤の斜面を利用して高桟敷があって、これに上がって高見の見物だが、桟敷料を取られる。

私の祖父は相撲好きで、前の晩に弁当を準備させておいて、家内揃って見物に出掛ける。当日は、高い櫓の上から夜明けと共に呼び込み太鼓が六郷に鳴り響く。相撲好きには胸がわくわくするような瞬間だ。

初めて見物したのが、有名な天下の横綱梅ヶ谷に常磐山だった。近郷近在からの見物が当時500人もあった。満員で、紅白のお礼餅を撒いた覚えがある。

相撲は川原で、芝居、軽業、曲馬は町裏の畑に小屋掛けする。電燈がないのでカーバイトと瓦斯燈が灯され、明るいものだった。入口の軒には演技のペンキ絵が並び、曲馬、軽業ではクラリネットとトランペットの音楽で入場をせきたてる。明治の終わりは月二、三回の巡業で、次の巡業が待ち遠しかった。

八百人も収容

そして、県下随一の常舞台の出現となる。

明治の末に500人以上入場の出来る設備の建物はほとんどなかった。満員札止めとなれば800人の収容も可能だったと言う。

地元有志の株式で、盛座、字砂土場に堂々たる威容の常舞台を完成して、座開には東京歌舞伎の一座を招聘して、柿落しには菊五郎、左団次、梅幸級の役者が顔を揃え、出し物は、寿三番叟、阿波鳴戸、一ノ谷熊谷陣屋の段、勧進帳など。うる憶えで、あまりよく覚えていない。

観客の九分九厘が歌舞伎芝居を初めて見た者ばかりだ。義太夫は古くから習ってる人も居たが、劇場が出来て本格的な役者の演技を見たのだから反響は大きかったろう。

街路は黒山の人

以来、時代劇、壮士芝居と年に一度か二度の地方廻り劇団が来て、楽しかったものだ。

また、顔見世の街廻りが見事で、一流役者となれば全員が人力車に分乗して、その日の出演姿で宣伝に車を連ねる。要所要所で、座長格の役者が解説をやる。街路はのんびり黒山の人出となる。

車上に立って、説明者は慣れた口調で声張りあげて「とざい東西、本日上演いたしまするは、第一場は目出度く寿三番叟、第二場は観客の涙を絞る父を尋ねて幼児が阿波の鳴門全通し一布、続いて第三場は一ノ谷熊谷陣屋の段、大切りは地元御存じ仙台萩政岡忠義の段」と説明が終わる。

前の車の太鼓が出発の合図に打ち鳴らされる。次の町かどに進行する。各車輌には役者名が染めぬいた職りが斜めに立ててある。  初めて見る常舞台、それから新派の壮士芝居が来て、出しものが変わり、劇場となりでは女角力も何度か見た。

町の有志の演芸会も度々開催し私も好きで出演した。あらゆる演劇、演説と活用されたが、映画全盛時代となり、大盛館と改名された。横山拳骨など、映画説明者として人気があった。

大盛館もやがて時代に沿って衣がえした常設館となった。専属映画弁士として山田秋声の登場となり、彼一代の映画の製作は大船渡線鉄道開通の記録映画「気仙の秋」のタイトルを完成したが、不運にもフィルム編集、その他の事由で封切公開は冬の寒い季節となった。天候にもはばまれ経営困難となり、失跡を余儀無くされ、彼の運命は大きく変わった。

〝幻の殿堂″

芸術文化の大殿堂とともに残ったものは、盛大に発表会を開いた大船渡音頭と小唄がある。盛座(大盛館)は、多くの思い出とともに幻の殿堂として消えたのである。

なお、この場を借りてお願い申し上げます。大盛館が消えたように山田秋声氏の作品「気仙の秋」の映画フィルムも彼とともに行方不明なのです。経営した街のクラブ食堂は娘さん夫婦が継続して繁盛しておりますが、唯一の手がかりとしてお伺いしても生死の程も不明とのこと、せめて「気仙の秋」 の映画フィルムの有無をご存じの方はお知らせ下さい。